第187弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 近江神宮前 近江大津宮錦織遺跡2012年10月05日 06時09分50秒











第187弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 京阪線沿線 近江神宮前 近江大津宮錦織遺跡

 

 次は、近江神宮前駅で降りる。この辺りになると、周りは住宅になっている。駅から西に向かい、車通りの多い47号線に出る。

 

そこで右折するとすぐ、住宅の間に1軒分ほどの広さの平地があり、「史跡近江大津宮錦織遺跡 第8地点」と記された案内板がある。案内には、この地の北に隣接する第1地点で、昭和49年に内裏南門跡が発見され、この地に大津宮があったことが確認されたと記されている。

 

発見者は、当時、滋賀県教育委員会文化財保護課の若い技師、林博通さんである。林さんは南滋賀廃寺の瓦工房跡を調査するため、三井寺の近所にあったアパートから歩いて通っていた。晩秋の頃、この地に重機が入って地面を掘削しようとしているのを目にした。直感が働いたのだろう。その場で、施主の伊藤さんに調査を願い出た。何かが出ると、確信があったわけでもない。それでも、伊藤さんのご厚意で承諾していただいたという。

 

「そういう所をいくら掘っても、何も出やしないヨ」という言葉を背中で聞きながら、林さんは教育委員会を説得し、調査は始まった。間もなく平安時代末の土器片を含む地層にあたった。さらに掘り進むと、地面から95cmの深さに四角い穴の跡が発見された。穴は垂直に掘られ、穴に詰まった土は硬く突き固められた様子がうかがえた。四角い穴の大きさは1辺が1.6m前後なので、宮殿クラスの建物が予想された。これが規則正しくどちらかの方向に並んでいるのが確認できれば、柱穴と判明する。果たして、その穴の東側1.5mの所に同様の大きさの方形の穴があった。柱穴は合計13個発見され、東西南北に整然と並ぶ構造から門と回廊と判断された。

 

結局、この調査は3月までかかり、史跡として公有化するかなどの議論があった末、遺跡は埋め戻され、伊藤家に返還され新居が建てられた。その時点では、大津宮に限りなく近い遺構という結論で、確定ではなかった。その後、空き地や住宅建設の際の調査を重ね、新たな発見が続き、昭和53年に志賀県教育委員会は大津宮の所在地を錦織地区であると発表した。次いで昭和54年には国の史跡に指定された。これまで、このような重要な決定は国が行ってきたから、極めて異例のことで、林さんは多少の軋轢があったことをほのめかしている。

 

今回、第8地点の案内板を撮った写真の背景に、偶然にも伊藤家の住宅が写っていた。その時はそのような経緯を知らない私は、伊藤家に敬意を払うこともなく、通り過ぎてしまった。

 

車道をさらに北へ向かう。緑の多い小さな公園があり、3mほどの高さの石碑が立っている。明治28年に建てられた石碑には、日吉大社の宮司が書いた漢文が彫られているが、摩耗してほとんど読めない。題字は志賀宮跡碑と篆書で書かれている。

 

碑文の内容を調べてみると、天智天皇の志賀大津宮の旧蹟だということから始まる。かつては舟と車が往来し栄えたが、いつか草が茂り田畝となって場所が分からなくなった。古老に尋ねると、錦織里に御所内という地名があるという。時折壊れた瓦が出たり、一帯にも皇子山とか東大路、西大路といった地名もあったりするので、ここに碑を建て、この地を大津宮の跡地として「無窮に伝える」とある。要するに、地名を頼りに、たいした根拠もなく、この地を大津宮跡と決めたようだ。

 

結果的には正解だったが、大津宮の所在がつい最近まで分からなかったということに驚いた。

 

それまでは、大津宮の所在について数々の論争があった。江戸時代には、錦織村の「御所跡」の地名を頼りに所在地論が展開した。明治時代になると、大津北郊にある条里遺構と小字名から導き出そうとする動きと、平安後期に比叡山の僧が書いた歴史書「扶桑略記」などの文献を頼りに、崇福寺や梵釈寺の遺構から割り出そうとする動きがあった。その頃は滋賀里説や南滋賀説が主流であった。昭和49年春、今のJR大津京駅の北側にある古代の溝の遺構から、大津宮から流れてきたとみられる音義木簡が見つかった。溝の上流にある錦織が大津宮の所在地として注目される発見であった。錦織第1地点で大津宮の遺構が発見されたのは、その年の秋であった。林さんの直感には裏付けがあったのだ。

 

志賀宮址碑をさらに北へと向かう。再び平地があり、地面には丸太が並んでいる。案内には大津宮錦織遺跡第2地点とある。第2地点は天智天皇自ら政(まつりごと)を執った内裏正殿のあった場所と推定されている。内裏正殿の建物は、道を挟んで第7地点から第9地点まで、東西が21.3m、南北が10.4mあったとされる。地面から突き出た丸太は、昭和57年に発掘された10個の柱穴の場所を示している。当時の柱の直径は35cmで、礎石を使わず直接地中に柱が埋め込まれていた。柱が焼けた痕跡はなく、抜いて持ち去られたようだという。

 

南門のあった第8地点から89m離れて内裏正殿のあった第2地点まで、南北一直線に走る47号線に沿って存在したことになる。今歩いてきたその道は大津宮の南北の中軸線であることが判明し、後世の西近江路と呼ばれた幹線道路だった。

 

そして、路傍にもう一つ案内があった。錦部(ママ)鄕は、機織(はたおり)関係の職務に携わっていた朝鮮半島からの渡来人である錦部氏が、奈良時代以前より、当地一帯を居住地としていたと、地名の由来が記されていた。

 

 参考文献

1)林博通:幻の都 大津京を掘る、学生社、東京、2005

2)大津市歴史博物館編:近江・大津になぜ都は営まれたか 大津宮・紫香楽宮・保良宮、サンライズ出版、彦根、2004

3)大橋信弥、小笠原好彦:新・史跡でつづる古代の近江、ミネルヴァ書房、京都、2003


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