第197弾 のむけはえぐすり 万葉集から読み取る遣新羅使の航路2013年08月18日 20時06分56秒






第197弾 のむけはえぐすり
万葉集から読み取る遣新羅使の航路

第20回目の遣新羅使の大使には、天平8年(736)2月28日、安倍朝臣継麻呂が拝命した。4月、安倍継麻呂は従5位下に叙され節刀を賜るや、軍令に従い帰宅は許されず、急ぎ平城京から平群、日下を経て難波津に向かった。出航までの間、難波津から13Kmほど離れた住吉大社への参拝を果たした。

6月、難波津を出帆した一行は、住吉津の波打ち際の松林の中に見える朱塗りの玉垣に囲まれた住吉大社を遙拝し、次の停泊地、武庫の浦へと向かった。武庫の浦で潮待ちして、灘の敏馬(みぬめ)浦から潮に乗って、明石海峡を一気に越え、加古川河口の印南都麻(いなみつま)の小島で船を休めた。

印南都麻という名は、隠れる、引っこもるという意味の「いなむ」に拠ったらしい。景行天皇は吉備臣の娘の印南大郎女(いなみおおのいらつめ)に求婚したが、印南大郎女は印南都麻に隠れた。愛犬が吠えて居所を知られ、連れ戻されたという伝承がある。一見略奪婚のようだが、印南大郎女は景行天皇の皇后となった播磨稲日大郎女のことで、日本武尊の母である。求婚されたからといって、巫女あった印南大郎女が「待ってましたとばかりに」というわけにもいかず、一旦逃げるという形をとったという説もある(折口)。

印南都麻の先は、今の姫路市の沖合にある大小40あまりの島からなる家島諸島を通過する。播磨国風土記には「人民(たみ)が家を造って住んだ、故に家嶋となづけた」とあり、縄文、弥生時代の遺跡も多い。家島のある播磨灘は広く、天候にさえ恵まれれば順風な航海が期待できた。

小豆島を過ぎて水島灘、備後灘、安芸灘の境は島々が連なっている。島の間は潮汐の干満によって激しい潮流を生じる幅の狭い海峡となっていて、それぞれに○○瀬戸と名前が付けられている。瀬戸を通り過ぎるのには、潮と天気と時間をみて一気に通り過ぎる。

船を休める停泊地には、武庫川河口の武庫浦、三原市沼田川河口糸崎の長井浦など波の穏やかな河口が多いのだが、「安芸国長門島にて船を磯辺に泊(は)てて作れる歌」という題詞もあり、島影の磯にも停泊することがあったようだ。

長門浦では、「長門浦より船出せし夜、月の光を仰ぎ観て作れる歌」という題詞に続く歌がある。

山の端に 月かたぶけば 漁する 海人(あま)の燈火(ともしび) 沖になづさう(3623)

われのみや 夜船は漕ぐと 思えれば 沖辺の方に 楫の音すなり(3624)

長門浦では漁師の漁り火やら、夜間に船の櫓の音が行き交う様子が詠われ、潮がかなうなら、月明かりを頼りに夜の船出もあったし、瀬戸を渡るには潮に乗るために漕いで渡っていたことが分かる。

安芸灘から伊予灘に抜ける最後の瀬戸が現代の柳井市の大畠瀬戸で、屋代島との間の大島鳴門が難所になっていた。そこをぬけて今の室津半島の熊毛浦で一息入れる。熊毛浦を出ると関門海峡までは瀬戸もなく順風満帆のはずが、周防灘で嵐に遭って、今の大分県中津市の分間浦に漂着した。

漂流の後、優雅に歌を詠うどころの騒ぎではなかったらしい、次の歌は博多の筑紫館である。筑紫館での歌には、「今よりは 秋づきぬらし・・・」(3655)や、題詞の「七夕に(なぬかのよい)・・・」や、「秋萩に にほへるわが裳・・・」(3656)と、陸地に上がって季節感の漂う歌が続く。天平8年7月7日は太陽暦736年8月17日というから、季節は夏の終わりである。旧暦の6月から7月まで、瀬戸内海を渡るのに約1ヶ月を要したことになる。

その後、糸島半島の引津亭(ひきつとまり)、唐津の狛島亭(こましまとまり)、壱岐、対馬の浅茅浦(あさじうら)を経て、竹敷浦に停泊する。万葉集にはこの先の道程と新羅国内で詠まれた歌はない。この後は、「筑紫に廻(かへ)り来て、海路より京へ帰らむとして・・・」と帰路の家島付近の題詞になっている。

続日本紀の天平9年正月26日の記事に、帰還した使節の報告に「新羅国、常の礼を失いて使いの旨を受けずとまをす」とあり、新羅に本当に行ったのかどうか怪しげだ。対馬で入国を拒否されたのではないか。記事には、対馬で大使安倍継麻呂は死んだと記され、何かの異変があったようだ。さらに、副使大伴宿禰三中は病で京に入ることができなかったとも記されている。

新羅に行けなかった理由は、その頃緊迫してきた新羅との関係が背景にあり、当時流行した天然痘(注)(麻疹という説も)のためだと考える人もいる(島田)。続日本紀の天平7年8月12日の記事に、「太宰府に疫に死ぬるもの多し、と聞く」とあるから、使節が行く前から太宰府管内に天然痘が流行していたのだ。使節の一人、雪連宅満が壱岐島で鬼病(えやみ)のため急死したと万葉集の題詞にあることから、大使が対馬で急死したのはその鬼病に感染したためであり、副使が入京できなかった病というのもそれだという。

遣新羅使が帰国した翌年の天平9年の夏に、天然痘は朝廷に蔓延し、藤原四兄弟が相次いで死亡した。遣新羅使が新羅から天然痘を持ち込んだという説も古くからあるが、既に西から流行が広がっていたわけで、遣新羅使も感染して新羅に行けなかったという方が正確なのかも知れない。

参考文献
1)島田修三:遣新羅使人歌群の史的背景  文学論的考察の前提となるもの、愛知淑徳短期大学研究紀要、30、1-10、1991
2)佐佐木信綱編:新訓 万葉集下巻、岩波文庫、1998
3)真弓常忠編:住吉大社事典、瀧川政次郎:住吉大社と遣唐使、2008
4)森浩一:万葉集に歴史を読む、ちくま文芸文庫、2011
5)折口信夫:最古日本の女性生活の根底、2013年8月確認、http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/24436_14407.html
注1)天然痘:天然痘ウイルスによって感染し、感染力は極めて強く、致死率は40%といわれている。今は種痘によって撲滅されて、世界中のどこにも流行はない。



遣新羅使は天平7年(668)天智天皇から新羅の文武王に使わされた初回から、桓武天皇の延暦19年(780)に正式に停止されるまで派遣は25回に及んだ。その後、遣唐使の消息を訪ねるための小規模な派遣があり、それを含めて遣新羅使は28回を数える。