第198弾 のむけはえぐすり 福岡大湊公園 鴻蘆館跡2013年10月21日 21時18分49秒







第198弾 のむけはえぐすり
福岡大湊公園 鴻蘆館跡

 万葉集の第15巻に、「筑紫館(つくしのたち)に至り遙かに本郷(もとつくに)を望み、凄愴(いた)みて作れる歌四首」という題詩がある。周防灘で嵐に遭った遣新羅使が筑紫館にたどり着き、久々にくつろいだ様子が詠われている。

 筑紫館は、日本書紀の持統2年(688)に、新羅からの使者である金霜林をもてなしたとあるのが最初の記述である。663年に倭が白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた後、太宰府の整備とともに造営されたといわれている。

 筑紫館の遺構が福岡にあるというので行ってみた。

場所は福岡市の大湊公園に隣接する舞鶴公園の中、福岡城と平和台球場の間に、もう一つ球場ができるほどの空き地が発掘現場である。その一角に近代的な建物の鴻臚館跡展示館が建てられている。入ってみると、中はガランとした体育館のような作りで、中央には発掘現場がそのまま残されている。基壇、礎石と記された案内板の周囲には、柱や溝の跡が白いペンキで縁取られている。別の一角には、捨てられた陶磁器の破片が無数に埋もれている。

その捨てられた陶磁器は平安時代のゴミ穴の遺構からみつかった大量の中国陶磁器で、鴻臚館に運ばれた後、火災に遭い、焼け割れて商品価値がなくなったために捨てられたという。これ以外にも、展示館の中には、中国越州窯の青磁、長沙窯の磁器、那窯の白磁、イスラム陶器、西アジアのガラス器など国際色豊かな発掘品が展示されている。

四方の壁にはポスターが貼られ、発掘品が展示されている。「筑紫館から鴻臚館への建物の変遷」というポスターには、第Ⅰ期 筑紫館の遺構(7世紀後半)、第Ⅱ期 筑紫館の遺構(8世紀前半)、第Ⅲ期 鴻臚館の時代(8世紀前半から9世紀前半)と同じ場所に繰り返し建てかえられた建物の遺構図が示されている。第Ⅳ期以降の建物は破壊されてわからなくなっているという。筑紫館の読みは万葉集では「つくしのたち」だが、展示では「つくしのむろつみ」になっている。

どの時代も、谷を挟んで南と北の二つの建物がある。第Ⅰ期は掘立柱の建物で、北の造成地には小規模な石垣があった。第Ⅱ期は谷の埋め立てが進み、北側の石垣は立派になり、南北の建物は同じ規模で建てられ、東西72m、南北56mの堀があり、南館北館の堀の外にはそれぞれトイレの遺構が見つかっている。

上の写真は、展示されていた第Ⅲ期の鴻臚館の全景復元図である。海は鴻臚館の間近にある。周囲は石垣に囲まれ、真ん中に谷があり、同じ形の建物が谷を挟んで南北に並んでいる。どちらの建物も庇(ひさし)がついた大型の建物で、基壇跡もみつかっている。回廊があり、東側には門がある。中には宿泊施設以外に、管理する役人や警備する人の建物や、食物や器物の倉庫もあった。

下の写真は復元された建物だ。場所は上の写真でいうと、陸側の南館で、西に3棟並ぶうちの最も外側、当時草ヶ江と呼ばれた今の大湊公園側の林に近い建物である。宿坊か回廊だとされている。鴻臚館跡展示館の中に残された発掘現場は、その内側に平行して建てられていた棟の遺構である。

展示された年表を見ると、鴻臚館の名は、838年小野篁が唐人と太宰鴻臚館で詩を唱和したという記事に初めてみえる。この時の使節には円仁が同船し、848年に帰国した際も、鴻臚館に滞在した。鴻臚館の名前は、唐の外交施設を鴻臚寺といったので、それにならって筑紫館から変えたようだ。鴻蘆寺の「寺」は秦漢の時代の庶務を担当する官庁のことで、寺が今のように仏教寺院の意味で使われるようになったのはもっと後の時代である。鴻というのは大きな鳥、臚というのは腹で、転じて告げるという意味になり、大きな鳥が外交使節の来たことを告げることを意味している。平安時代の鴻臚館は筑紫(福岡)、難波(大阪)、平安京(京都)の3カ所にあったが、現在、遺構が確認されたのは筑紫の鴻臚館だけである。

年表にはさらに、861年に平城天皇の皇子、高岳親王が唐へ行き、翌年帰国の際にも鴻臚館に滞在したと記されている。861年と869年には唐の商人李延孝が、866年には唐の商人張吉が鴻臚館に「安置」されたとある。鴻臚館は9世紀前半までは中国や新羅からの外交使節をもてなし、日本からの遣新羅使や遣唐使、留学生の宿泊施設として利用されていた。それが9世紀後半になると、唐や新羅の商人たちが滞在するようになり、唐(後に五代、北宋)や朝鮮半島との貿易の拠点となっていたことがうかがえる。11世紀後半に貿易の拠点が鴻臚館の東の砂丘の博多に移り、鴻臚館の役目はそこで終わったようだ。

展示された地図では、鴻臚館と太宰府が東南にまっすぐ延びた2本の古代の官道でつながっている。官道は太宰府の手前で大野城から延びた長さ1.2Kmの水城によって遮断され、東門と西門で通じている。奈良時代の律令下では、太宰府は西海道の九ヶ国(九州)と2島を統括し、九州防衛の要となり、東アジア諸国との対外交渉の窓口となっていた。その中で、鴻臚館は太宰府の出先施設としての役割を担っていた。

「遠(とう)の朝廷(みかど)」と呼ばれた太宰府の組織図がある。政所(まんどころ)、公文所(くもんじょ)、蔵所(くらのつかさ)、税所(ちからのつかさ)など15の組織があり、中央政府を模した組織図になっている。鴻臚館はその中の蕃客所(ばんきゃくしょ)に所属していた。その他、鴻臚館に関係のありそうな組織は主船司(しゅせんし)で、鴻臚館から西に離れた今の福岡市西区周船寺付近にあったとされている。もう一つは警護所で、鴻臚館にあったと記されている。

この警護所は、貞観11年(869)、新羅の海賊船が博多湾に侵入した事件の後、設けられた。その後も11世紀はじめに刀伊(とい)の入寇事件があり、その記事から警護所は福岡城の小高い丘(後の天守台)にあったと想定され、鴻臚館遺跡の位置を推定する根拠の一つとなった。それを提唱したのが、大正から昭和初期にかけての九州における考古学の先駆者であり、九州帝国大学医学部教授でもあった中山平次郎博士だったという。

文献
全て、鴻臚館遺跡展示館にある展示の記事に拠った


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