のむけはえぐすり 第23弾 原善三郎の話2006年09月09日 15時48分34秒


のむけはえぐすり 第23弾 原善三郎の話
その6 町会所

 明治14年(1881)、善三郎53才で横浜商法会議所の会頭になる。

 まだ地方分権という考えがない頃、町会所が横浜の行政役所の役割をしていた。町会所で集められた歩合金は、道路や橋の修繕などに当てられ、売込商は23000円、引取商は3万円、製茶売込商は1万円負担していた。これを県庁の役人が自分たちの管轄にして、値上げもしましょうと言い出したから、歩合金をめぐる事件になった。

 実は、そんな内輪の話よりも大変なのは、外国商人の扱いだ。儲けのためなら、やりたい放題。田舎に行って、生糸を勝手に仕入れる。見つかれば、開き直る。いきなり契約はキャンセルする。

 困った時に、お上は何をしてくれたかというと、大蔵省は頑張れとただ掛け声だけ、外務省は穏便にというばかり。結局のところ、頼りにならない。
 外国商人に対抗するには、横浜商人が一丸とならなければと、教えてくれたのは、西洋事情に詳しい福沢諭吉さんだ。その話を一緒に聞きに行った小野光景さんと善三郎は、民間の力で、横浜商法会議所を作る。

 町会所の時計台付きのビルは、明治7年(1874)に建造された。そのビルに、横浜商法会議所の看板が掛けられる。善三郎は初代会頭、小野さんは副会頭に就任する。
 あくまでも私的な任意団体であった横浜商法会議所を、もう少し公的な性格を強めましょうとか言いながら、国と県が制令を作って割り込んでくる。何を今更と思うが、断れない。明治28年(1895)に横浜商業会議所へと改変し、さらに横浜商工会議所へと移行する。

 町会所は、明治22年(1889)横浜市制が始まるまで存続する。写真は、町会所跡で、今は開港記念会館となっている。横浜市役所と横浜公園の間の「みなと大通」と、本町通の交差点、県庁のはす向かいにある。
 
 その場所には、幕末から越前藩の専売の生糸商「石川屋」があった。その取締役には、福井藩の岡倉勘右衛門という侍が抜擢される。息子の岡倉角蔵さんは、そこで生まれる。
 明治4年の廃藩置県で、石川屋はなくなり、角蔵さんは東京に移り住む。15才で、東京開成学校、今の東京大学に進学し、アメリカ人の東洋美術研究家フェノロサに出会う。

 東洋美術研究に興味を持った角蔵さんはアメリカに渡り、美術関係の英語の論文を多数発表する。東京に戻って、東京美術大学をつくり、横山大観らと日本美術院を立ち上げる。角蔵さんは、後に天心と号する。岡倉天心さんである。

のむけはえぐすり その7 ドイツ領事館2006年09月09日 15時50分01秒


のむけはえぐすり 第24弾 原善三郎の話
その7 ドイツ領事館

 明治6年 善三郎、45才。生糸改会社社長としてドイツ領事館と渡り合う。

不平等条約による商業上の不利益を回復するまで、いわゆる商権回復までには、外国商社とのトラブルが連発する。生糸改会社の代表として、善三郎は収拾に何度も乗り出す。

 善三郎が社長に就任して間もない頃。ドイツのKniffler(クニフラー)商会の手代の千野某が、上州下仁田の商人松葉屋佳助と偽って、国内用蚕種を買い上げ、横浜駅(今の桜木町駅)から積み出そうとする。
 「生糸改会社の証書はあるか」と尋ねると、返事がないまま、強引に荷物を運び出そうとする。係員は、長い棒を持った当時の巡査、邏卒(らそつ)を呼んで、引き留めにかかる。邏卒が一味を番所まで連行する事態となった。

 一味の中に、ドイツの領事が一人いたから、話が大きくなる。どうしてそんなところにいたのか、そのことの方が問題だと思うのだが、ドイツの総領事のVon Brantさんが出てきて外務省にねじ込む。「生糸改会社にそんな権限があるのか、領事裁判にするぞ」と、切り札をちらつかせる。領事裁判になったら、勝ち目はない。善三郎らがKniffler商会に掛け合って、国内用蚕種を輸出用の蚕種に取り替えさせる。
 一件落着と思いきや、Von Brant総領事が収まらない。「邏卒がウチの領事に失礼をしたから、処罰せよ」としつこい。できるできないのすったもんだの末、泣く泣く駅長と邏卒を戒告処分とする。

 Kniffler商会は、バタビアのドイツ系商社パンデル・シュティーハウス商会から長崎に派遣されたKnifflerさんが設立した。文久元年(1861)に、横浜支店を開設し、現在もイリス商会として存続している。似たような経歴の会社に、スイス系ではBavier(バヴィエル)商会やブレンワルトのSiber Hegner商会があり、今も活躍している。Siber Hegner商会ではスラセンジャーの品物を扱っていたと、旧社員の「鼈甲メガネのイッちゃん」が言っていた。

 当時、お節介のドイツ領事館がどこにあったか、良く分からない。ただ、大桟橋通と本町通の交差点から元町寄りに、旧警友病院別館があった。大正10年頃にできた石造りの建物が、ロシア資本とフランス資本の合弁の露亜銀行で、一時ドイツ領事館として使われたことがある。勿論、その頃は善三郎も世にいない。
 写真はその旧露亜銀行、ドイツ領事館である。本町の消防署の前、山下町47番地。

のむけはえぐすり その8 朝陽門2006年09月09日 15時51分55秒


のむけはえぐすり 第25弾 原善三郎の話
その8 朝陽門

 明治13年(1880)、善三郎52才、 商権回復のため外国商社と戦う

 その年、貿易の実権が外国商人に握られ、日本側に不利な貿易慣行があることを、善三郎は大蔵卿に訴える。
 
 例えば、初めの頃は、生糸を外国商館に運び込み、商館の雇い人に斡旋してもらい、取引契約を結んでいた。開港して15年も経っても、同じように手数料や荷造りの諸経費を払わされている。
 生糸を持ち込んで、それから仮契約、品質検査、計量、支払いへと進む。故意に遅らせれば、本国の相場の動きを見極めることができる。値下がりすれば、平気でぺケにできる。品質が合わないとか、強度がないとか、理由はいくつかあって、そのための都合の良い検査も用意されている。

 それに対する善三郎の提案はこうだ。生糸を一旦荷預所に保管します。外国商館には見本だけを持っていきます。それで良ければ契約して下さい。引き渡しは荷預所でします。そのために、聯合生糸荷預所を作らせてください。貿易が滞る期間、荷主達にお金を貸してあげて下さいというものだ。

 初めは、地方の荷主も大賛成だった。当然、外国商人達の不買運動が始まる。やがて、在庫は貯まる、資金は回らない、貸してもらった金の利子が負担になる。
 あちこちで不満が噴出し、掟破りも出てくる。挙げ句の果てには、善三郎は自分たちの利益だけでやっているのではないかとまで言われる。
 どうにも動きがとれなくなって、「将来、共同で倉庫を建てましょう」と、イイ加減な落とし所で決着する。二ヶ月間で何も変わらなかったのが、聯合生糸荷預所事件である。

 その時の騒動の一因になったのが、Bavier(バヴィエル)商会の、再線検査をする機器だ。何のことはない、引っ張って切れやすいかどうか調べる検査だ。かなり主観的な(?)結果が出る検査機器だったようだ。
 
 外国商館で雇われていたり、外人相手の商売をしたりしていたのが、中国から来た人たち。中華街はそういう人達が住み着いてできた街で、もともとは外人居住区だった。 Bavier商会は、横浜76番。明治28年の「新撰横濱全図」で見ると、本町通の中華街の入り口にある朝陽門の近く、本町通沿いの横浜ユーロタワー辺りか? 背中合わせのシルク通に面した横浜96番は、重慶飯店のローズホテル。写真は、朝陽門である。

ピンクリバー その22006年09月09日 17時35分13秒


大変盛り上がっていました。

最後はプロレスのグレートサスケ選手も会場にきていたので挨拶してました。

ピンクリバー その12006年09月09日 17時43分27秒


磯子のピンクリバーに行ってきました。

ブログでは有名人のバンマスのいらっしゃるお店です。
9/8(金)はレボルバーというビートルズのコピーバンドとプレスリー(こちらはバンド名忘れた)が出るということで初めて行きました。
雰囲気が思っていたのとは違って南国のライブという感じで楽しめました。

話は違いますがこのブログのビューももうすぐ1万ビューです。
ご協力ありがとうございます。

テニスの全米オープンはエナンとシャラポアという夢の対決ですね。

F-cupも消息筋によると「幻の優勝者」(どなたかわりますよね)が今回はきそうですよ。

高プロと一緒2006年09月15日 23時03分39秒


金曜の夜は綺麗どころで締めくくりましょう

ニイハオ! うさぎさんチーム2006年09月15日 23時06分28秒


はい、ウサギさんチームです。
今回のワールドワイドを代表して International です。
BM賞も準優勝も棄権も。。。

実力者揃いのくまさんチーム2006年09月15日 23時09分31秒


歴代の優勝者を抱えた実力者揃いのくまさんチームですが・・・
今回は入賞者無し。

一番料理が余っていたのがこの卓だとか。
残念ながら直前で参加できなかったけれど宴会は参加の方も。
是非次回はナイスチョットを。。。。

くじゃくさんチーム2006年09月15日 23時12分58秒


もう「あがった」んではないか?と言われておりましたが「まだまだ現役!」

飛べないオンニがやっと羽を開いて羽ばたいたくじゃくさんチーム。

宴会に駆けつけていただいた高プロと一緒に。

第17回 F-cup ザ・カントリークラブジャパン2006年09月15日 23時16分17秒


●注釈;以下のコメントは幹事さんからです。

それにしてもこの写真は
「あんまのおじさんとやくざの情婦と第三国人の団体」といった感じですね。
接待ゴルフ場だと思ったんですが「飛んでも8分 歩いて10分」・・・トリッキーでした。

------------幹事さんのコメント----------------

 9月10日の日曜日、33人が集まって、ザ、カントリークラブジャパンで行われた。快晴の天気で、風はそれほど強くはない。

 女性は8人。いずれも腕に覚えがあるか、技に自信があるか、どちらかの一騎当千ばかり。今回は国際色が豊かだった。いつもは日韓二カ国だが、今回は横文字PeterとAlexが参加して、俄然ワールドカップを思わせる雰囲気だった。

 優勝は、「子育て」とは言っても、本人にはもう産む力も卵子もないので、孫と言うことになるが、その子育てから戻ったYオンニであった。
 このところの低迷は長かったが、もともとは実力派で、理論派で、努力家で、美系。一見か細い体から繰り出す正確なショットは、芝をなぎ倒し、グリーンに突き刺さる。このまま子育てで朽ち果てるかと思われた矢先の優勝だった。本人はさほどうれしそうな雰囲気は見せなかったが、心の中では「賞金1万円が入って良かった」と喜ぶ姿はありありだった。

 ただ、馬券が4人も当たったのは、2位に入ったセントジョセフ系の牝馬に人気がかぶったためだ。この牝馬は、馬場の重さは関係ない。ターフを巻き上げて、一途に驀進する様は、いつか来る優勝を期待させるのに十分だった。

 3位のベスグロ常連は、いくらハンデが減っても、次々と上位に絡んでくる。今回は、前回優勝でハンデを9から6に減らしても、関係ない。4位の3年連続賞金女王もそうだ。

 今回も無事コンペは終わった。二次会の重慶飯店はごちそうさま。限られた予算だったのに、いつもより豪華な感じがしたのは、私だけだろうか。Alex! Thank you..