のむけはえぐすり 第42弾 原善三郎の話 その22 洋銀取引所2007年01月03日 19時08分28秒


のむけはえぐすり 第42弾
原善三郎の話 その22 洋銀取引所

 庶民にとって洋銀取引とはどういうものだったかという、ある生糸商の話。

 私も初めて外国商人から、メキシコの銀で作られた8レアル銀貨(1ピアストル)を1ドルだといわれて支払を受けた時は、本当に天保一分銀3枚と換えていただけるのか不安でした。

 事実、洋銀と呼ばれるその銀貨を運上所に持っていっても、なかなか一分銀には換えていただけませんでした。

 文久元年に前橋商人の三好某さんが日本橋の宝町で、お決まりでは45匁の洋銀1ドルを、46匁で交換したと聞いた時には、なるほどそういう商売もあるのかと感心したほどです。

 洋銀と一分銀の交換ができるようにと、お上の肝いりで、文久元年には三井御用所さんが、明治2年には両替屋さん達が、それぞれ洋銀売買所なるものを始めましたが、所詮お役所仕事、何の足しにもならない内に消えてしまいました。

 私も生糸の商売で儲けさせていただいた頃は、両替屋を利用して33匁で換えたこともありました。それも初めの頃は、わざわざ江戸まで行かなければなりませんでしたが、やがて横浜にも80軒あまりの両替屋ができ、本当に便利になったと思ったものです。
 
 明治5年頃でございましたか、お上が洋銀と同じ価値の1円銀をお作りになり、これからの世の中は金だとか申されて、たいそうな鼻息の時がございました。その上、近場の国に合わせて貿易一円銀も作られ、洋銀が市場から一時無くなるかと思う程の勢いでした。

 明治7年に、南仲通の田中平八さんの商店で、洋銀付出し商売が始まりました。それからです、南仲通が洋銀相場の本場と言われるようになったのは。
 午前午後の相場の立ち会いがある頃には店先に人があふれ、相場確定の声を聞くや否や、蜘蛛の子を散らすように四方に散っていき、たいそうなにぎわいでございました。

 ところが、明治10年に西郷さんともめた頃から、なんだかお上は紙幣をたくさんお作りになりました。世の中に紙幣があふれ、明治12年には76匁にも高騰しました。お上はご自分のお目が届くようにと、渋沢栄一さん、大蔵喜八郎さん、善三郎さん達に、洋銀取引所を始めさせました。

 これが間違いのもとでした。横浜の内外貿易額が半年で300万円程度なのに、洋銀の取引額は1500万円にもなり、それほど空売買が横行したのです。私もそうでしたが、生糸商の中には本来の生糸の商売に手が着かず、相場師のようになってしまった者もおりました。

 お上は、「正金札を実際に持っていなければ、売買すること相成らず」と布告なさいましたが、そんなことはみなさんどこ吹く風。明治13年には、紙幣1円80銭出さなくては、洋銀1ドルを拝むことすらできなくなり、一時洋銀取引所が閉鎖されました

 次に再開された時には、洋銀取引所は国立第二銀行の中でしたが、後ほど南仲通3丁目に移って参りました。明治18年になって、ようやく銀貨と紙幣の価格差がなくなったとかで、洋銀取引所もお役ご免になりました。

 エ!? 私でございますか? 
遠の昔、洋銀相場に失敗して、今は南仲通で客引きをやっております。
 今の南仲通3丁目辺りの写真をお付けしておきます。関内もこの辺になりますと、夜もおにぎやかという訳には参りませんが、よろしくお願い申し上げます。ハイ。

 参考文献
1)日比野重郎:横浜近代史辞典(改題横浜社会辞彙)、湘南堂書店、東京、原本1917、復刻版1986