のむけはえぐすり 第52弾 原善三郎の話 その30 コントワル・デスコント銀行2007年06月01日 22時38分10秒

のむけはえぐすり  第52弾 原善三郎の話  その30 コントワル・デスコント銀行

 文久3年(1863)、インドに営業基盤がある(アングロ・インディアン)のセントラル銀行、マーカンタイル銀行、コマーシャル銀行が横浜にやって来る。  翌年には、アジア最強の東洋銀行が来て、さらにヒンドスタン銀行と香港上海銀行が来る。イギリス代表が出そろったところで、慶応3年(1867)、待ちに待ったフランス代表、Comptoir d'Escompte de Paris(コントワル・デスコント銀行、パリ割引銀行)が登場する。  というのは、日本の生糸の大部分は、世界的な絹織物の産地フランスのリヨンに出荷されていたからだ。

しばらくはその7つの外国銀行が為替業務を独占し、いくつかの銀行が洋銀券をそれぞれ勝手なデザインを描いて発行する。

コントワル・デスコント銀行は山下57番、今のアウディの道を挟んだ隣にあった。今は更地になっている。その辺りのもともとはフランス居住区だった。海岸には東波止場(通称フランス波止場)があったが、明治4年に廃止された。余談だが、山下町57には、明治3年から7年までエリオット博士による日本初の歯科診療所もあった。写真は、その歯科医療発祥の地を示す記念碑のエリオット博士のレリーフである。

   洋銀券を見ると、現在の株券のようで、持ち運びが不自由な紙幣といった体裁だ。例えば、セントラル銀行が発行した25ドルと印刷された洋銀券には、英語でpromises to pay the bearer on demand at this office here twenty five dollars of local currency value receivedと書かれ、漢字でも「・・・右現洋銀貳拾五枚」としっかり兌換を確約しているところがエラい。

   だが、これらが紙幣のように扱われるのには困った。偽物も出まわる。  明治2年(1869)、政府は善三郎らが社長の横浜為替会社に、洋銀券を発行させる。その後、洋銀券は善三郎が頭取になった第2国立銀行へと受け継がれる。

 明治7年(1874)、大蔵省は外国銀行が発行する洋銀券を排除するために、外国銀行の洋銀券が信用できないことを、巷に言いふらす。

   外国銀行が怒るまいことか。  当時、新政府とお付き合いが深く、洋銀券発行を遠慮していた東洋銀行を除いて、マーカンタイル銀行、香港上海銀行、コントワル・デスコント銀行は日本の「バンクノート」は受け取らないと宣言する。

 中でも首謀者となったコントワル・デスコント銀行の支配人ウオルモントさんは、「ジャパン・ヘラルド」紙に意見広告を出す。  ウオルモントさんは、「横浜にある外国銀行の資金は、日本の方には甚だ少額に思えるでしょうが、コントアルデスコント(当時新聞のママ)がたった2000万ドル、東洋銀行1000万ドル、香港上海銀行が510万ドル、チャルトルドメルカンタイルバンクが400万ドルでございます。  私たちが信用できないと言うのであれば、多分日本はもっと資金がおありなのでしょうから、どうぞ公表なさってみて下さい」と、ないのを見越して、言ってくる。

 大した解決も見ないうちに、外国銀行間の競争が激化し、世界的に銀価が下落し、外国銀行の経営は厳しくなる。挙げ句に、フランスはプロシアと普仏戦争になる。  明治10年(1877)には、コントワル・デスコント銀行の横浜支店が閉鎖される。  2年後に一時、横浜支店の営業が再開されることもあったが、フランス国内の大手銀行との競争に敗れ、さらに内部の投資にも失敗し、コントワル・デスコント銀行は明治12年(1889)、破綻してしまう。

 もう少し待っていてくれれば、善三郎も新聞に意見広告を出したはずだ。 「第2国立銀行は23万2000ドルだ。どうだ、参ったか」ッて。

参考文献  立脇和夫:外国銀行と日本 在日外銀一四〇年の興亡、蒼天社、東京、2004

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