第124弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 番外編 安積の延喜式内社2009年05月10日 19時26分42秒

延喜式内、名神大社 宇奈己呂和気(うなころわけ)神社

第124弾  のむけはえぐすり
古代の帰化人 番外編 安積の延喜式内社

 この連休に父の墓参を思い立ち、故郷の福島県郡山市を訪ねた。その折、面白い神社に出会った。

 父の墓参をすませ、夕食までの時間をドライブで過ごすことにした。近くに古墳が見つかり、4月から公開されたというので、大安場史跡公園に向かった。

 場所は田村町大善寺。父の実家にかなり近い。宅地が並ぶ造成地を通り抜けると、人工的に復元され、芝もまだ根付かない前方後方墳が見えてきた。全長83m。古墳としては小型に属するが、東北地方では有数の大きさだ。前方後方墳は有名な前方後円墳より年代的に古く、4世紀に北関東の太田市周辺で、「毛野王国」の大王の墳墓として盛んに造られた。5世紀に大和朝廷の支配が広がると、朝廷を真似て巨大な前方後円墳が造られるようになり、前方後方墳はすたれた。頂上に並ぶ土師器の壺型土器のレプリカも、古墳時代前期の古墳であることを示している。ということは、4世紀頃にはすでに、このような大きな古墳を造る有力な王が、阿武隈山地の山麓にいたということになる。

 田村町には800年頃の蝦夷征伐の際に坂上田村麻呂によって築かれた守山城があり、子孫の田村庄司氏の本拠があった。坂上田村麻呂は百済から渡来した漢(あや)氏の一族で、桓武天皇の信任も厚い武将であった。征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、800年の前後、40年間続いた蝦夷との戦争に勝利し、蝦夷地をほぼ征服した。

 古墳を後に、連休の交通渋滞を避け、郡山の郊外を北西に向かって車を走らせた。田舎道を車で15分、直線距離にして10Kmほど離れた三穂田町八幡の辺りで、神社の鳥居が目に入った。延喜式内社、名神大社と書かれている。このところすっかり「のむけはえぐすり」の一番の愛読者になった母と、車を停めて行ってみた。

 写真の右に石碑がある。そこに、延喜式内、名神大社 宇奈己呂和気(うなころわけ)神社と書かれている。コンクリートで造られた鳥居を入ると、両側に真新しい狛犬が置かれている。奧にトタン屋根の社殿と社務所がある。こざっぱりとして、何もない。境内は掃除が行き届き、今も祭りなどでは使われているような感じだ。他には、常夜灯が数基あり、「早ぐこっちゃ、来(こ)」と振り向く女性がいる。

 延喜式内というのは、平安時代初期の延喜式の神名帳に記載されていた神社で、全国3万余社のうち、官幣社が737社、国幣社が3395社あった。延喜式内社というだけでも自慢できる話なのだが、中でも名神大社(みょうじんたいしゃ)となると、別格だ。全国に203社しかなく、そのうち陸奥国には15社あった。宇奈己呂和気神社はその一つで、奥州二の宮、安積三十三郷の総社と位置づけられていた。

 そんな由緒ある神社がこんな近くにあったことも知らなかったし、すっかり寂れていることにも驚いた。

 社伝によれば、宇奈己呂和気神社の祭神は、瀬織津比売命(せおりつひめのみこと)と誉田別命(ほんだわけのみこと)であって、ついでのように、海童神(わだつみのかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)が併記されている。

 瀬織津比売命は、6世紀中頃の欽明天皇の頃に、この近くの山の頂上に祭られていた。瀬織津比売命を祭る神社は全国的にも少なく、摂津や滋賀にあるというのだが、どちらも帰化人の多い土地柄だ。福島県の中通りで、海童神という海の神様を祭っているのも不思議な話だ。ここで瀬織津比売命を氏神としていた氏族には海の匂いがする、といったら考えすぎだろうか。

 ところが、古事記では瀬織津比売命は伊邪那岐神(いざなぎ)が黄泉の国から帰った時に、禊(みそ)ぎをして生まれた祓戸大神(はらえどのおおかみ)のうちの一柱だとされている。祓戸大神とは、お祓いを司る神という意味だ。同じように伊邪那岐神から生まれた神様には天照大神や素戔嗚尊もいるが、そちらは祓戸大神とは言わない。多分、祓戸大神というのは、大昔、各地の有力な氏族が大和朝廷の支配に組み入れられた時に、その氏族が信仰していた神々を古事記や日本書紀に書き入れ、伊邪那岐神から化生したことにしたのかも知れない。

 782年に、蝦夷平定を祈願して、瀬織津比売命を祭神とする宇奈己呂和気神社が大伴家持によってこの地に創建された。その時に八幡様も一緒に祭られ、誉田別命も祭神に名を連ねた。だが、現代に至るまで誉田別命を差し置いて、瀬織津比売命が主祭神として祭られている神社というのは、全国的にも珍しいというのだ。

 というのは、神社の格付けが行われたのは平安時代だけではないからだ。天皇による中央集権国家を目指した明治政府は、国家神道の統一も目論み、明治4年に太政官布告を発し、全国の神社に新たな格付けを行った。その際、かなり強引に地方の神社の祭神変更が行われ、もともと祭られていた地方の氏神は、古事記や日本書紀の神様たちの後ろに回され、付け足しのように残されたり、ほとんどは消されたりした。
 
戊辰戦争から間もない頃の話だ。
 
 宇奈己呂和気神社の社殿の屋根にある×印は、二本松藩主丹羽氏の定紋、直達紋である。会津戦争では、会津の白虎隊のように二本松藩の少年隊も多くの犠牲者を出した。戦後、二本松藩は10万石から5万石へ厳封された。
 賊軍となったこの地の明神大社が、優遇されるわけがない。まして、天照大神や誉田別命を主祭神とせず、自らの瀬織津比売命への信仰を頑固に貫き通す神社である。実質格下げとなって、さびれたのかも知れない。

 信仰を貫いた村人の誇りは、今に残る社殿とは不釣り合いな石碑に残されていた。
 
 参考文献
1)森浩一:古代日本と古墳文化、講談社学術文庫、2001

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