第183弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 坂本 日吉大社2012年08月18日 01時55分01秒










第183弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 京阪線沿線 坂本 日吉大社

 

  まずは、日吉大社の日吉を“ヒエ”と読むか、“ヒヨシ”と読むかという話から。

 

もともとは日枝、比叡と書いてヒエと読んでいたが、 平安時代に縁起のよい“吉”の字を当て、ヒヨシとも読むようになった。明治以降は格式を重んじてヒエを用いていたが、官幣大社がなくなった戦後は親しみやすいヒヨシの日吉大社が公称となった。全国3800の日吉神社または日枝神社の本社である。

 

近江一の宮、日吉大社へと向かうには、緑の桜並木の参道を、なだらかに上っていく。「山王総本宮 日吉大社」の碑の横を過ぎ、写真のように笠木の上に合掌状の杈首(えだくび)がついた山王鳥居(合掌鳥居)の下をくぐり、神の猿と書いてマサル(神猿)とよぶ本物のお猿さんがいる前を通り、西本宮へと導かれる。東本宮は途中の右手の薄暗い参道の先にある。東本宮は二宮ともよばれたり、西本宮の大比叡に対して小比叡と呼ばれたりして、西本宮よりも低く扱われているようだ。

 

 にもかかわらず、今回の写真は東本宮の方をあげた。それは、神奈備である牛尾山(標高378m)の頂上にある奥宮に対する里宮としての起源が、東本宮の方にあるからだ。創建は日吉大社の口伝抄に垂仁天皇の時と記されているが、かなり古いのは確かなようだ。これに対して、西本宮の方は天智天皇が近江大津宮に遷都(667年)した翌年に、大和の三輪山に祀られていた大己貴神(おほむなち・素戔嗚尊の息子)を勧進して建てられたもので、時代的には新しい。

 

同じ敷地にあっても、天皇が創建した西本宮の方が、先祖発祥の地に祀られた産土神(うぶすなかみ)の東本宮よりも格式も高かったのだろう。平安時代の延暦25年(808)、伝教大師・最澄が牛尾山の奥の比叡山に延暦寺を創立した時に、日吉大社を鎮守と定め、しかも大己貴神を祀る西本宮を第一位、大山咋神を祀る東本宮を第二位としたことで、両社の差は明らかになった。その後も何度か神階を賜る度に、例えば859年には西本宮が正二位、東本宮が従五位といったように、差は開く一方だった。

 

西本宮の参拝を終え、牛尾山の山麓を南から西へと緩やかに下りながら東本宮へと向かう。途中、竈殿社、宇佐宮、白山社などの摂社や末社を参拝しながら、山王祭にくり出す7基の御輿の収蔵庫の前を通り過ぎ、程なく天正年間に建てられたという東本宮の楼門の前に出る。

 

 上の写真は、楼門を入ったところから見た東本宮である。

 

写真の奥に見える建物が東本宮の拝殿で、その向こうに東本宮の本殿がある。左の建物は日吉大社の摂社・樹下(このした)神社の本殿で、右が樹下神社の拝殿である。古地図でみると、初期の本殿は樹下神社の場所にあって、湖岸の比叡辻から真っ直ぐに参道が延びていた。その頃の樹下神社には大山咋神と妻の鴨玉依媛が一緒に祀られていた。後に東本宮が建てられた時に、東本宮に大山咋神、樹下神社に鴨玉依媛と分けて祀られ、東本宮に向かうには、樹下神社の本殿と拝殿の間を通って行かなければならない不思議な構図になったというのだ。

 

 樹下神社の本殿と拝殿の間を失敬して、東本宮の本殿へと向かう。本殿の左手に亀井霊水と記された井戸がある。仏様に捧げる水を汲む閼迦井(あかい)であった。その横に、牛尾山から引かれた清水が音を立てて落ち、水飲み場になっている。その傍らに78cmのハート型の葉が、地面にへばりつくように並んでいる。葵だという。葵が二つ並ぶ姿は夫婦円満の象徴だとされ、双葉葵は日吉大社東本宮の神紋になっている。双葉葵は下鴨神社と上賀茂神社の葵祭の紋でもあり、松尾神社の神幸祭の紋でもある。

 

本殿の背後の山から牛尾山一帯には長さが5mから12mの横穴式古墳が68基あり、日吉大社境内古墳群となっている。6世紀後半から7世紀前半に営まれた古墳だという。古墳として一番知りたいのは、この古墳群の古墳は天井に行くほどドーム状に狭くなる持ち送りのある横穴式なのか、あるいはミニチュアの炊飯器の模型土器が副葬されていたのか、そういった朝鮮半島の高句麗や百済に起源を持つ古墳の特徴があったのかどうかだが、古墳の写真を見たり文献を調べてみたりしたが分からなかった。百済系の帰化人である三津氏がこの地に住んでいたというから、三津氏の営んだ古墳である可能性はあるだろうが、そう簡単に言い切れるものでもないらしい。

 

東本宮はその古墳を破壊して建てられているので、東本宮が建てられたのは古墳に対する畏敬がなくなってからだ。だが、牛尾山の山頂にある巨岩を古代の祭祀場である磐座(いわくら)とし、その神奈備から湧き出る泉を霊泉として祀る信仰そのものは、かなり古くからあったと考えられる。

 

今回、東本宮の祭神は秦氏の松尾神社と同じ大山咋神と鴨玉依里姫であり、神紋も同じであることが分かった。百済系の三津氏と新羅系の秦氏と、歴史の中でどう交錯するのか、それは分からない。その謎は樹下神社と東本宮の祭祀方向の交差に隠されているようにも思える。

 

いずれにしても、日吉大社の東本宮辺りに行ってみて、古代の帰化人の足跡が少し見えたような気がした。

 

 参考文献

1)大津市役所:新修 大津市史Ⅰ 古代、1978

2)谷川健一編、日本の神々 5 山城近江、木村至宏:日吉大社、白水社、東京、2009

3)川口謙二編:日本の神々事典、柏書房、東京、2007

 



第182弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 坂本 滋賀院門跡2012年08月05日 15時47分56秒








第182弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 京阪線沿線 坂本 滋賀院門跡

 

 今の近江の湖西、大津市の辺りは古代の滋賀郡であり、北から真野鄕、大友郷、錦部(にしごり)鄕、古市(ふるち)鄕があった。かつての大友鄕から古市鄕にかけて、今の坂本から石山までの14.1Kmの区間を京阪石山坂本線が走っている。21の駅があり、複線の線路をカラフルな2両編成の電車が、頻繁に行き交っている。

 

今、まさにこの京阪電車の走る辺りに、地図のように北から三津首、穴太村主(あのうすぐり)、志賀漢人(あやひと)、大友村主、錦部村主、再び大友村主、大友但波史などの古代の帰化人が住んでいた。

 

京阪電車の駅をひとつひとつ立ち寄りながら、古代の帰化人たちの足跡を訪ねてみたいと思った。

 

今回は、始発の坂本駅である。

 

新しい駅舎の坂本駅から、日吉神社へと向かう。日吉馬場と呼ばれる参道の両側に200本ほどの桜並木が植えられ、ところどころに石燈籠が置かれている。明治の廃仏毀釈で一旦ここにうち捨てられていたものを、再び整然と並べたというから面白い。道の両側には、大人の肩ほどの高さの石積みに囲まれた建物が並んでいる。山上の坊に対する里の住まいで、里坊といい、坂本の町にはたくさんある。三津首が出自とされる最澄の誕生の地に建てられた生源寺の案内に、里坊とは「環境の厳しい山上での修行を積んだ僧が、高齢になり、天台座主(ざす)の許可を得て隠居所として住んでいた場所」と記されている。

 

暑い夏の日差しのなかを桜並木の木陰に守られながら200mほど歩いて、左に折れた先に、写真のように石積みが一段と高い、白い塀に囲まれた滋賀院門跡がある。里坊を代表する滋賀院は延暦寺の総本坊である。元和元年(1615)に慈眼大師天海が京都の法勝寺を移築して建立されたのが始まりで、1655年に後水尾天皇から滋賀院の号と寺領一千石を賜り、江戸時代の末まで天台座主であった法親王が代々住まわれていた。明治時代に火事で焼失するまでは滋賀院御殿と呼ばれていたが、現在の建物は山上にあった建物を移築したものだという。

 

坂本の町を美しく見せているのは、町の至る所にある里坊を囲む石積みである。滋賀院門跡の美しい曲線の石積みに代表されるその石積みは、穴太衆積みと呼ばれる技法で作られている。

 

穴太衆積みは自然石と粗割石を使用して積み上げる野面積みの一種だが、穴太衆積みが有名になったのは、織田信長の安土城の築城に用いられてからだ。安土城の石垣作りを各地の石工たちが競い合うなかで、穴太衆の築いた石積みはイエズス会のルイス・フロイスが、「城壁も石垣も頗る高かったが、たいそう巧妙に築造されていて、・・・極めて堅固で立派に見え・・・」と驚嘆するほど素晴らしかった。それ以後、全国の大名の間に穴太衆積みの評判は広がり、穴太衆は各地の城づくりに招かれ重用されるようになった。

 

石積みの技術者として穴太衆が歴史に登場するのは、足利義政が銀閣寺の東山殿の石垣を築くのに必要な雑木を「あなうのもの」に与えよという記述が最初である。これより先の14世紀の史料には、「穴太散所法師」という記事がある。散所とは「古代から中世において、その住民が年貢を免除されるかわりに権門社寺に属して土木や掃除などの雑役に服した地域」をさしていて、穴太には比叡山の支配下にあり石積みのような特殊技術を持った隷属民が、下級僧侶として集団的に居住していたとする見解もある(平野、39P)。

 

穴太衆の本貫は、今の京阪電鉄坂本駅から穴太駅の間のもっと山の方といわれている。その辺りには高句麗や百済の流れを汲む、ドーム状に天井が持ち送りになった横穴式古墳が坂本に30基、穴太に234基、滋賀里に158基と数多く、古代の帰化人たちが居住していた足跡がある。

 

穴太衆積み14代粟田純司氏は、「その横穴式古墳の石組みの形は、穴太衆積みのルーツといってよい型だ」という(平野、86p)。ならば、穴太衆は百済の帰化人の子孫かというと、その間には千年に近い時間差がある。技術は伝わったかも知れないが、それを子孫とまでは到底いえないだろう。

 

坂本に住み、穴太衆積みを今に残す粟田純司さんにしてからが、初代は阿波国の石工、阿波屋喜兵衛だったという。豊臣秀吉の命により、穴太衆が徳島城を修復した折、見習い職人となった喜兵衛が穴太衆の帰国と共に坂本に移り住んだと伝えられている。その頃、元禄年間の坂本には穴太衆が300人ほどいたというが、今は阿波屋改め粟田建設が一軒残るだけだという。粟田純司さんで14代を数えるが、それでもたかだか300年である。5世紀に住み着いた百済の帰化人、あるいは7世紀の白村江の後に大挙してやって来た帰化人の子孫が、千年経って穴太衆だなどと、軽々しくいえない理由はそこにある。

 

今回、13代目の万喜三さんが伝えた穴太衆積みの極意に、なるほどと思うことがあった。それは、石垣の壁となる石面の合わせ口を、表面となる石面で合わせないで、表面から10cmほど奥で合わせなさいという話だ。石垣の表面をぴっちり合わせた割石や切石による石垣の方が、ゆがみを生じやすい。上手に過重を分散できないからだという。さらに、石積みにはタブーも多い。基本は品の字の形に積むのだが、石の形状に合わせて適当に積んでしまう「落し積み」もタブーのひとつだ。農漁村にみる素朴な石垣が、それだという。

 

「石がそこに座りたいといってるやろ。そこに積んでやるこっちゃ」といっていた万喜三さん。座右の銘は、「石の声を聴け」

 

参考文献

1)平野隆彰:穴太の石積、あうん社、丹波市、2007

2)大津市役所:新修 大津市史Ⅰ 古代、1978

「のむけはえぐすり」はいつまで休稿なのでしょうか?2012年07月16日 16時47分28秒





今回河口湖のテニス合宿に行って帰りの車の中で思いがけない話を聞けたので。。。

僕のテニスの先生で会社の先輩を乗せて走っていたら・・・

T;最近 のむけはえぐすり 掲載されないね。どうしたの?

実は彼は のむけはえぐすり の大ファンでして次の回を期待してブログを見てるのですが
ここのところ更新が無いので心配してました。

T;のむけは実際に取材旅行をしてるからすごいね。写真も自分で撮ったものだし。

それと色々「うんちくネタ」があって勉強になるんだよと言って
「へその緒のことをえなという」(だったと思う)例を出してました

彼も古代史に興味があって同人同士で色々情報交換なのかな・・をしているそうです

ということで固定ファンもいるので監督もそろそろ再開しましょうよ

原稿お待ちしてますよ(^_^) 




「のむけはえぐすり」の訂正2012年02月26日 21時28分18秒






「のむけはえぐすり」の訂正

 

181弾  猿田彦の白髭神社の中ほど、

「逆に白髭神社の北に広がる高島平野には、古代には安曇(あど)川の地名の由来となった安曇(あずみ)氏がいて、継体の母、振姫が生まれた頃には三尾氏が支配していた。」

 

を、以下のように訂正いたしました。

 

「逆に白髭神社の北に広がる古代の高島平野には、安曇(あど)川の北に三尾君がいて、南に角臣が支配していた。」

 

理由

1)安曇氏は福岡県にある綿津見の三神を祀る志賀海神社の辺りが発祥の地で、大阪の難波を拠点にして、広く海産物を貢献する漁労民である海人集団の全般を統率する地位にあり、7世記には百済との外交に活躍した(古代豪族の謎、114P)。

 

2)近江で地名に安曇があるところは、伊香に安曇郡(倭名類聚抄)があり、高島に安曇(あど)川の地名がある。多分どちらも、安曇(あずみ)氏の安曇が由来なのでしょうが、本貫地として記載されているのは伊香の方だけである(古代豪族の謎、123P)。

 

2)白髭神社周辺の古代の豪族は、南に小野臣がいて、北の高島平野には安曇川を挟んで、北に三尾君、南に角臣がいたとされている(大津市史、古代第1巻、107P)。

 

4)そこで、「高島平野に安曇氏がいた」という記述を削除して、大津市史の記述のように変更した。




第181弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 猿田彦の白髭神社2012年02月18日 02時36分59秒








第181弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 猿田彦の白髭神社

 

猿田彦を主祭神として祀る神社は、白髭神社、伊勢の猿田彦神社、鈴鹿の椿大神社と都波岐神社と奈加等神社、宮崎高千穂の荒立神社が主なところだ。

 

白髭神社で猿田彦の形跡を探ろうにも、境内の奥の摂社に天岩戸神社があるくらいで何もない。  そもそも何故、白髭神社の祭神が猿田彦命になっているのか、謎である。今回はその謎について調べてみた。

 

上の写真が宮崎県高千穂町に伝わる民俗芸能の夜神楽(よかぐら)で演じられる猿田彦の姿である。顔は赤く、大きな鼻が特徴である。それは日本書紀の一書に、「鼻の長さが七咫(あた:約1m)、背の高さは七尺(約2m)余り、・・・口尻(くちわき)明かり耀(て)れり、眼は八咫鏡(やたかのかかみ)のごとくして、てりかがやけること赤酢醤(あかかがち:ホオズキのこと)に似れり」と記されていたことから作り出された姿のようだ。

 

何をしているところかというと、邇邇芸(ににぎ)命が天降るときに、一行を「筑紫の日向の高千穂の槵触峯(くしふるたけ)」まで道案内をするために天の八衢(やちまた:分かれ道)で待っているところだ。間もなく天細女(あめのうずめ)が邇邇芸命の使いとしてやって来て、何者かと尋ねる場面が演じられる。

 

古事記によれば、猿田彦の案内で邇邇芸命一行は無事に高千穂に着いた。一行を送り届けた猿田彦は天細女に送られて「伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴川の川上」に戻った。その功により、天細女は猿田彦の名を継いで猿女君(さるめのきみ)を名のるようになった。

 

その後、猿田彦は伊勢の松坂の海で漁をしている時に、比良夫(ひらぶ)貝に手を挟まれておぼれ死んだという。最後がチョットしまらないが、猿田彦命は天孫降臨の天つ神を初めて迎えた国つ神であり、今は交通安全、方位除けの神として祀られている。全国各地のお祭りで御輿の行列の先頭にいて、烏帽子を被り、大きな鼻の面をつけ、高下駄を履き、派手な錦の衣装を着て、杖をもった人を見ることがある。実は嚮導(きょうどう、道案内)の神として信仰される猿田彦である。

 

下の写真は、五十鈴川の中流、伊勢神郡内宮近くにある猿田彦神社である。これと向かい合うように佐瑠女神社(さるめじんじゃ)がある。以前訪れた時には、この猿田彦神社を猿田彦信仰の総本社なのかと思っていたが、創建は明治だという。ただ、宮司はもと伊勢神宮の重職であった宇治土公(うじとこ)氏で、猿田彦の末裔の太田命の子孫だ。他に、「伊勢 一宮猿田彦大本営」を自称する都波岐神社が鈴鹿市一宮町にある。どちらが真の総本社とも決め難いようだ。

 

猿田彦信仰の起源は古く、猿田彦には異名が多いことでも知られている。実際に、寛永年間に作られた白髭神社縁起の上巻「詞書第三段」にも、猿田彦が語った話として、「私は国底立神、気神、鬼神、大田神、興玉神と呼ばれたりもしている」と、由来と共に記されている。

 

猿田彦の研究者である飯田道夫氏によれば、稲荷神社の稲荷は通称で、稲荷神社に祀られているのはウカノミタマと猿田彦が多いとか、白髭神社の白髭の神が猿田彦だとか、全国津々浦々に展開する道祖神や庚申さんも実は猿田彦だという。また、伊勢神宮では興玉神、日吉山王者では早尾神、熱田神宮では源大夫として猿田彦が祀られ、他に春日大社、住吉大社、多賀大社のような名だたる神社で、猿田彦はそれぞれ独自の名前で祀られているという。つまり、猿田彦は民間信仰の神として広く親しまれているばかりではなく、古代の有力な氏族の氏神となっている大社にも祀られている不思議な神である。

 

飯田氏は、猿田彦信仰が全国に伝播していった背景には和迩氏の存在があったと考えている。和迩氏は和邇、和珥、丸邇、丸などとも書かれる。同族が多く、主なところでは発祥の地とされる大和の石上神社辺り布留氏、春日氏などは勿論、近江の湖西の小野氏が和迩同族である。他に、伊勢の水銀に関わった飯高氏が同族で、和迩氏は鉄や水銀の生産に関係した氏族でもあった。飯田氏は同じように湖東で水銀生産に関わった息長氏も和迩氏と考え、鉱山事業で各地を移動した和迩氏が伊勢の土地の神であった猿田彦を広めたと考えている。

 

湖西に和迩の地名のあるところは、白髭神社から湖岸沿いに比良山麓を18Kmほど南下した和邇町だが、和邇川を挟んで小野町がある。かつてその辺りが、猿田彦の名を継いだ猿女君の養田であった。平安時代の猿女は78才の少女で、巫女として大嘗会(だいじょうえ)や鎮魂祭に奉仕し、中務省の縫殿寮に所属していた。平安時代初期には、小野氏や和邇部氏が猿女として自らの子女を貢進することがあったようだ。

 

逆に白髭神社の北に広がる古代の高島平野には、安曇(あど)川の北に三尾君がいて、南に角臣が支配していた。朝鮮半島との関係が深い三尾氏の氏神である三尾神社は猿田彦を祭神としていたという記録(飯田、45p)があり、古くから高島平野には猿田彦信仰が根付いていたようだ。

 

白髭神社には猿田彦以外にもうひとつ、伊勢との関係を示しているところがある。創建したとされる倭姫命である。倭姫命は垂仁と皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)との間に生まれた三男二女のうちの次女である。垂仁253月に、垂仁の命を受け、天照大神が鎮座する場所を探して、宇陀から近江、美濃を巡って伊勢にたどり着き、五十鈴川のほとりに斎宮を立てた。伊勢の斎宮の始まりとなった方である。

 

白髭神社で猿田彦を祀った氏族は、伊勢とのつながりの深い氏族であったことは確かなようだ。伊勢神道の根本経典の一つ、鎌倉時代に執筆された「倭姫命世記」に、倭姫に伊勢神宮の適地として「宇遅(うじ)の五十鈴川の河上」を勧めたのは猿田彦の末裔、大田命と記されているから、倭姫命と猿田彦との組み合わせは可能だと思った。

 

参考文献

1)飯田道夫:サルタヒコ考 サルタヒコ信仰の展開、臨川選書、1998

2)三浦佑之訳:口語訳 古事記、文藝春秋、2002

3)倭姫命世記:http://nire.main.jp/rouman/sinwa/yamatohime.htm、平成14910

4)「歴史読本」編集部編:古代豪族の謎、新人物文庫、2010

第180弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 比良明神と白髭明神の白髭神社2012年02月06日 03時11分10秒











第180弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 比良明神と白髭明神の白髭神社

 

白髭神社は垂仁天皇25年に倭姫命によって創建された。祭神は猿田彦命で、別社には比良明神と白髭明神の名があげられているが、比良明神と白髭明神は同一のようなのだ。今回はいつ頃からどうしてそうなったのか、調べてみた。

 

上の写真は慶長年間(1603)に豊臣秀頼によって寄進され、片桐且元が奉行となって播州の大工により建立された白髭神社の本殿である。

 

 写真では本殿の後ろになって見えないが、本殿の湖側に棟続きに拝殿がある。その拝殿の軒下に、下の写真のような過去に謡曲白髭の能が奉納された記念の額が掲げられている。

 

謡曲白髭は白髭神社ゆかりの能の演目である。謡曲白髭の主な登場人物は、ワキが勅使、ワキツレが従者、シテが漁翁、ワキツレは漁夫である。シテは後に姿を変えて、後シテの白髭明神となって再登場する。

 

あらすじはこうだ。ある春の日、勅使が白髭明神への参拝の途中、漁をする翁と漁夫に出会った。その翁は勅使に白髭明神の縁起を語り始めた。

 

お釈迦様はかねてより大宮権現(今の日吉神社)の橋殿(今の板橋)を仏法流布の拠点にしたいと考えていた。お釈迦様が亡くなってから、その辺りを見渡すと、比叡山の麓の滋賀浦の辺りで釣りをしている翁がいた。お釈迦様が「もし翁がこの山の持ち主であるなら、仏法のために譲って欲しい」と頼んだ。すると翁は、「自分は6千年も前からこの山に住んでいて、琵琶湖が7度まで葦原になったのを見てきた。だから、この地が結界となると、釣りができなくなるので困る」と答えた。お釈迦様が諦めて帰ろうとすると、薬師如来が現れ、「私は2万年の昔からこの地の主だったのだが、そのことをこの翁は知らないのだ。私もこの地にとどまるから、一緒に仏法を広げましょう」といい、去っていった。

 

その時の翁が白髭明神だったと、勅使に語った翁もまた白髭明神だった。その晩、白髭明神は勅使を慰めるために舞楽を奏し、夜通し楽しんで、朝になったら「飛び去り行けば、明け行く空も白髭の、明け行く空も白髭の、神風、治まる御代とぞ、なりにける」でめでたく、鼓の音のポンで終わる話である。

 

謡曲白髭に出てくる白髭神社の神様は白髭明神である。一方、白髭神社に伝わる「白髭大明神縁起絵巻」に出てくる神様は比良明神である。

 

そちらのあらすじはこうだ。聖武天皇が盧舎那仏(大仏)を建立するにあたって、大仏を鍍金するのに必要な黄金が足りないので困っていた。747年、聖武天皇は良弁を吉野の金峯山(こんぷさん)に派遣して黄金産出を祈願させた。良弁の夢の中に吉野の金剛蔵王が現れ、「ここの黄金はお釈迦さまが入滅してから567000万年後に、弥勒菩薩が人間界に降りて来る時に、大地に敷くために使うつもりだから採ってはいけない。近江の滋賀郡の琵琶湖の南に如意輪観音が現れる地があるから、そこに行ってみなさい」とのお告げがあった。

 

良弁が勢多(今の瀬田)に行ってみると、老翁が巨石の上に座って釣りをしていた。老翁は比良明神だと自ら名のり、「この地は如意輪観音の霊地だから、ここで祈れば願い事が叶う」と教えてくれた。そこで、良弁は草の廬を結び、観音像を安置した。それが後の石山寺の始まりである。間もなく、百済王敬福によって陸奥国小田郡(今の宮城県涌谷町)から黄金が発見され、900両の黄金が献上されてきた。

 

「だから」と、「白髭大明神縁起絵巻」の詞書第六段は続ける。日本初の黄金の発見にあたっては、「蔵王の擁護、観音の霊応のみに限らず、比良明神も加助の力をそえた」として、日本初の産金に関する石山寺縁起を拝借して、こちらの方は比良明神の名で手柄話を創出している。

 

その前段、「白髭大明神縁起絵巻」の詞書第五段には、「土俗、其神を祠(ほこ)りて、神社をたつ。老翁の貌を現し給へは、白髭の神と申しぬ」という記事がある。比良神はもともと比良山山系の最高峰比良山の麓にあるこの地方の地主神(じぬしじん)だったのだが、それが白髭明神と呼ばれるようになったのは、比良明神の容貌が白髭の老人であったからだとはっきりと書かれている。

 

天智天皇の時に比良神に比良明神の神号を賜り、平安時代の「三代実録」には865年に近江国の無位の比良神に従四位下が授けられたとあるから、平安時代までは比良神あるいは比良明神と呼ばれていたようだ。それが鎌倉時代には比良明神が白髭明神と呼ばれていたことは、「比良庄堺相輪絵図」などいくつかの古文書の記述で明らかになっている。鎌倉時代辺りが比良明神と白髭明神の使い分けの境目になっているようだ。

 

後世の脚色があったにしても、聖武天皇の奈良時代に石山寺縁起の原型はできたであろうから、白髭神社の神様が比良明神のままでもおかしくはない。これに対して、謡曲白髭に語られている比叡山の開山は延暦7年(788)だが、謡曲白髭が作られた年代は世阿弥を源流として能楽の演目が盛んに作られた室町時代以降のはずだから、白髭神社の神が白髭明神となっているのだろう。

 

ただ、どちらの物語にもいろんな仏様が登場し、仏様と神様が共存している。日本の八百万の神はさまざまな仏が化身した姿であるとする本地垂迹(ほんじすいじゃく)説の影響が強いと思った。

 

参考文献

1)畑中英二:天平産金と石山寺、琵琶湖の考湖学 第2部 18

2)小竹志織:白髭神社、琵琶湖の考湖学 第2部 13

3)白髭神社ホームページ、http://shirahigejinja.com/2011119

4)白畑よし:石山寺縁起絵巻、石山寺、1996

5)谷川健一編:日本の神々 神社と聖地5 山城近江、白水社2009

6)川口謙二編:日本の神様読み解き事典、柏書房2007

7)古典文学電子テキスト検索β:白髭、http://yatanavi.org/textserch/index.php/70


第179弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 新羅の白髭神社2012年01月31日 02時55分34秒








第179弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 新羅の白髭神社

 

琵琶湖西岸の湖水浴を楽しむ車の渋滞に紛れながら、161号線を南下する。高島平野が終わり、比良山地の山並が湖に迫る辺りで、左手の湖の中にくすんだ朱色の鳥居が見えてくる。

 

不思議な光景である。湖岸から50mほど離れているのだろうか。湖には風もなく、波は静かで、夏の午後の日差しの中に、ぽつんと立っている。鳥居の柱を前後から支えるように稚児柱が設けられ、厳島神社の宮島鳥居に似て、両部鳥居と呼ばれている形式である。両部とは真言宗の立場から神道を解釈する際の神仏習合思想である両部神道からとった名称であるらしい。

 

14世紀ごろの「比良庄堺相輪絵図」には、鳥居が陸上に描かれている。それが琵琶湖の水位が変化するうちに湖の中に孤立し、16世紀の「江源武鑑」に記されている鳥居は湖上に立っている。白髭神社の境内にある鳥居復興碑には、昭和12年に大阪の薬問屋の小西久兵衛が荒廃した鳥居を立て替え、今の鳥居は昭和56年の復興事業で建立されたものだとある。

 

白髭神社の主祭神は猿田彦命だが、別社には白髭大明神、比良明神がある。白髭神社の言い伝えにはそれぞれの伝承がからみあって、ごちゃまぜになっている。

 

例えば、白髭神社の白髭とは、爾爾芸命(ににぎのみこと)が天孫降臨する際に道案内をした猿田彦命の髭のことだという話がある。そうかと思えば、白髭は新羅が転化した名で新羅系の帰化人が関係しているという話がある。さらに、白髭明神とこの地方の地主神である比良明神は同じだという話がある。比良明神が白髭の老人として近江地方の伝承にたびたび登場するのだが、それがまた謡曲「白髭」と白髭神社縁起では似ているようで違っているところがまた悩ましい。

 

今回はその中でも新羅系の帰化人との関係について調べてみた。

 

白髭神社はこの近江の白髭神社を総本社として、全国各地に150以上の分霊社がある。関東にも白髭神社は多く、東京墨田区の白髭橋の近くにある白髭神社はとりわけ有名で、951年に慈覚大師が近江から勧請したとされている。ところが、関東では近江の白髭神社の分社である白髭神社以外に、埼玉県高麗郡にある高麗(こま)神社の分社となっている白髭神社がある。

 

高麗(こま)神社とは高句麗からの帰化人、若光王を祀る神社である。高句麗の王族であった若光王は666年に高句麗から帰化して相模国大磯に居住していた。716年に武蔵国高麗郡の郡令となり、関東近辺に散在していた高句麗人1799人をまとめて移住した。今の埼玉県高麗の辺りだ。若光王が748年に亡くなると、高麗明神として高麗神社に祀られたが、若光王は晩年白髭の老人であったことから、古くからあった白髭神社に祀られていた白髭明神と同一視された。金達寿氏も白髭神社は新羅系のはずなのに高句麗の若光を祀るのは変だと思ってはいたが、高麗明神と白髭明神が一緒だという俗説に惑わされたと話している(金、57p)。

 

白髭神社を渡来系の神社とする「日本の神々」に紹介されている説は、言語学的な立場からのものだ。白髭(はくしゅ)は百済(ひゃくさい)のことであり、その百済も仮借字で、本当は韓国語でクナル、すなわち大国という意味だというのだ。

 

また、白髭神社のように白の字がつく神社は、帰化人由来の神社だとする説も根強い(川口、451p)。とりわけ白髭は「新羅」が転化した言葉で、他に白木、白城、白子白石、白山などがあり、白山(はくさん)神社も新羅の白山が語源となっているというのだ(金、81p)。現に、白山比咩(しらやまひめ)神社は、開祖である帰化系氏族の三神安角の子、泰澄が、717年に白山に登り、朝鮮の巫女、菊理姫(白山貴女)をその山頂に奉祭したのが始まりである。

 

白髭神社が新羅からの帰化人の関係する神社だったとすると、近くに新羅系の帰化人が住んでいたのだろうか?

 

今回、車で南下して来る途中、高島の勝野漁港を過ぎ、湖と山の隘路になった白髭神社の辺りがちょうど高島郡と滋賀郡の郡境になっている。高島郡に隣接する滋賀郡の真野鄕には真野氏がいたのだが、新撰姓氏録によれば、真野氏は先祖が新羅に出かけた時に新羅の女王と結婚して生まれた子だと記されている。白髭神社を氏神とした新羅の帰化氏族は真野氏の関係であった可能性はありそうだ。一方、高島郡の側に新羅系の帰化人がいた可能性はどうだろうか?

 

白髭神社の境内に、「紫式部の歌碑」がある。

 

 近江の海にて三尾が崎というところに網引くをみて

 「三尾の海に 網引く民の てまもなく 立ち居につけて 都恋しも」

 

源氏物語の作者、紫式部が平安時代の996年に越前の国司となった父、藤原為時に従って越前に向かう途中、一行が逢坂山を越え、大津から船に乗り、この辺りを通った時に、漁民が猟をする姿を見て紫式部が詠んだ歌である。

 

その日の泊まりは高島郡勝野である。先ほど通過してきた高島平野の南のはずれにある漁港のことである。次の日には塩津から越前国府の武生に下ったというから、新羅神社の高島郡側は古来より琵琶湖を船で渡る時の中継点になっていたようだ。

 

当然、朝鮮半島と行き来する人々が京から敦賀へと向かう時にも利用されていただろう。そういう場所なら古くから新羅からの帰化人が住んでいた可能性はあると思った。

 

参考文献

1)金達寿:古代朝鮮と日本文化、神々のふるさと、講談社学術文庫2000

2)谷川健一編:日本の神々 神社と聖地5 山城近江、白水社2009

3)川口謙二編:日本の神様読み解き事典、柏書房2007

 


第178弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 小野神社2011年06月20日 23時28分45秒








第178弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 小野神社

 

琵琶湖の西岸、大津市北部の小野町に、写真の小野神社と小野篁(たかむら)神社が同じ敷地内にある。その南に小野道風(とうふう)神社と小野妹子の墓とされる唐臼山古墳があり、小野町は奈良平安時代の名族、小野氏の出身地である。

 

小野氏が政界で重用されるようになったのは、小野妹子が6077月に聖徳太子によって派遣された遣隋使の団長に抜擢されてからだ。例の「日出づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す」としたためた国書を差し出し、隋の煬帝の不興を買った、その時の遣隋使である。

 

無礼な手紙のせいで、妹子はしばらく謁見がかなわなかった。帰国の直前にようやく煬帝に会うことができ、倭王への返書を預かった。妹子は隋の使節、裵世清ら一行13人と共に、6086月に帰国した。日本書紀によると、帰途、百済に立ち寄った時に煬帝の返書を盗まれたという。重罪に値する失態だが、妹子を処分すれば、裵世清に返書紛失の一件がばれてしまう。不問に付された妹子は、9月の裵世清の帰国に伴い再び渡海し、百済まで行って戻ってきた。

 

大礼という下級の官職に過ぎなかった妹子は、その後、推古朝では最高位の大徳に出世した。子孫は小野朝臣の姓を賜り、奈良平安時代には位階では三位(さんみ)以上、官職では参議以上をつとめることができる貴族となった。

 

小野神社の由緒書きに小野氏系図があったので、写真に示した。それを見ると、妹子王と書かれた妹子の子に毛人(えみし)がいる。地図の三角印、京都左京区の修学院の近くにある高野の崇道神社から毛人の墓誌が発見され、墓誌には天武朝で太政官を務め、大徳冠であったことが記されていた。琵琶湖西岸の小野氏はこの高野から移住したと考えられている。地図でその道筋をたどると、高野から八瀬(やせ)、大原、途中峠を越え、和邇(わに)川に沿って下ると、小野の町に出る。高野と近江の小野は古代の「途中越」の道でつながっていた。

 

毛人の子が毛野で、この時に小野氏の権勢は最高潮に達した。毛野の孫に岑守(みねもり)がいて、ひ孫に篁がいる。ともに陸奥守となり、蝦夷地の経営にあたった。篁は最後の遣唐使の副官に任命されたが、正使の藤原常嗣と対立し乗船を拒否する事件があった。政務能力に優れ、当代屈指の詩人であったが、政府を批判したとして一時流罪になり、その後、復活している。

 

岑守の孫に道風がいる。平安時代の三蹟の一人で、書道の神様として知られている。もっと身近なところでは、花札11月の「柳に小野道風」の20点札で有名だ。道風がスランプに陥った時、蛙が不可能と思える柳の枝に飛び乗ろうとして何度も失敗し、ついには成功したのをみて、再び発憤したという故事を図柄化している。

 

篁の孫に小野小町がいる。現代ではクレオパトラ、楊貴妃に並ぶ美人として評判だが、当時は六歌仙の一人、歌人として知られていた。要するに、小野氏には学問芸術に抜きんでたものが多かった。

 

小野氏の学問芸術に優れた才能も、小野妹子からだ。妹子が遣隋使の団長として抜擢されたのは、国際的な教養と学識があったからだといわれている。それを育んだのは、小野から歩いて12時間の距離にある三井寺から阪本にかけて住んでいた穴太、大友、錦織(にしごおり)、槻本といった帰化人だった可能性がある。この帰化人は倭の軍事的な支援の交換条件として百済から渡来した人々で、蘇我氏の指揮下に組み入れられ、国家的な港湾施設である志賀の津に集められ、志賀漢人(あやひと)と呼ばれていた。数学を駆使した天文学や、吉凶の判断をする遁甲などに優れた知識を持っていた。

 

阪本の北、和邇川から真野川の流域に、北から和邇、小野、真野という地名が並ぶ。古代に和邇氏、小野氏、真野氏がいた名残だ。

 

小野神社の系図をみると、小野妹子は敏達(30)の孫になっているが、どうも怪しい。新撰姓氏録には小野氏は大春日朝臣と同じ先祖とあるから、孝昭(5)の皇子、天押帯日子命(あめのおしたらしひこのみこと)の子孫で、古代の名族和邇氏と同族だということだが、これには若干の説明が必要だ。

 

天理にいた和邇氏が近江に侵出してきたのは、5世紀のことだ。その時に近傍の地方豪族は有力な和邇氏の勢力下に入り、血縁はなくとも和邇氏の長(氏上・うじがみ)を本家と仰ぎ、擬似的な同族関係を結んだ。このような氏族を和邇同族といい、奈良盆地の東北にいた春日、柿本、大宅がそうであり、京都の辺りでは粟田、小野がそうだ。

 

真野臣の先祖は、新撰姓氏録の右京皇別に、新羅に出かけた時に新羅の王女と結婚し生まれた子だと記されているから、5世紀半ばに朝鮮半島から帰化した氏族ではないかという人もいる(大津市史1,28p)。真野氏は和邇氏の私有民である和邇部となり、北陸にある和邇氏の領地や和邇部からの貢献物を運搬する湖上輸送の中継をしていた。真野鄕の付近に住むようになった小野氏とは、7世紀以前には共に宮廷に女官(巫女・ふじょ)を出すなど、つながりは深かった。

 

和邇氏が衰退した時、小野氏は和邇同族の氏上となり、真野氏を支配下におくようになった。9世紀中頃には、小野神社の春秋の例祭に、大春日や布瑠や粟田といった和邇同族が氏子として参加していたという。

 

古代にはそれほど栄えた小野神社ではあったが、南北朝の争いの中で、南朝方に味方し、家職を奪われ衰えた。摂社の小野篁神社と小野道風神社が村人の鎮守社として残っていたが、明治になって小野篁神社の境内に小野神社が再建され、二つの神社が同じ敷地にある今の形になった。

 

参考文献

1)新修 大津市史 古代 第1巻、大津市役所、1978

2)志賀町史編集委員会:遣隋使 小野妹子、1994

3)谷川健一編:日本の神々 神社と聖地 5 山城近江、白水社、2009

 


第177弾 のむけはえぐすり 継体天皇の妃の手白香皇女衾田陵(西殿塚古墳) 補足2011年05月30日 21時32分06秒



第177弾の本文中の「墳丘の形も、後期古墳にしては前方部よりも後円部が高く、子
の欽明の見瀬丸山古墳と同じである。」の中の“後方部”を“前方部”に訂正いたし
ます。
 
この文はいくつかの説明が必要です。
 
1)写真は宮内庁陵墓指定地、手白香皇女衾田陵の前にあった案内板です。
案内板に右の方に航空写真がありますが、この西殿塚古墳の前方後円部のくびれが深
いのに気がついて下さい。前方部が後円部よりも小さく、バチ状に広がっているよう
な前方後円墳は時代的には古く前期古墳に属します。ついでにいうと、前方部は後円
部よりも低いのです。卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳に近い形をしています。
 
2)これが中期、後期になると前方部の方が発達して、大きく高くなって“ずんぐり
むっくり”な形になります。
 
3)欽明天皇の陵墓は飛鳥にありますが、実は近くにある6世紀では最大の見瀬丸山
古墳が真の欽明陵だろいうといわれています。陵墓指定地にはなっていないこの前方
後円墳が後期古墳のくせに、前方部が後円部よりも低くなっています。この形が西山
塚古墳と同じだから、母と子の陵墓が同じプランで作られたと考えられ、西山塚古墳
の方が真の手白香皇女の墓だろうといっているわけです。
 



第177弾 のむけはえぐすり 継体天皇の妃の手白香皇女衾田陵(西殿塚古墳)2011年05月26日 21時15分01秒





第177弾  のむけはえぐすり

継体天皇の妃の手白香皇女衾田陵(西殿塚古墳)

 

山辺道を歩くと、萱生(かよう)の集落を過ぎた辺りから、西殿塚古墳が見えてくる。農園をすり抜け後円部に沿って小径を歩き、上の写真の手白香皇女衾田陵(たしらがのひめみこ・ふすまだりょう)の拝所に出る。

 

途中、前方後円部のくびれが下の写真のように深くなっている。航空写真をみると、前方部の先端がバチ状に開き、箸墓古墳に近い形をしている。

 

埴輪の原型は壺をのせる特殊器台にあった。古墳に置くためにスカート状に裾が開いた形であった特殊器台が、葬送儀礼のための用具として大型化し、埋め立てるために底部が筒状に変化し、円筒埴輪となった。中間の形として、口縁部が段になった特殊円筒埴輪がある。写真の右側の畑から特殊器台と特殊円筒埴輪が出土したことによって、この古墳が3世紀末から4世紀初めに作られた古い古墳であることが分かった。

 

となると、6世紀の継体の正妃、手白香皇女の陵墓というには古すぎることになるが、陵墓指定地の被葬者と古墳の年代が合わないことなど珍しいことではない。それよりも、卑弥呼の時代に近い初期の大和王権の王墓が、ここにあることの方が驚きなのだ。

 

山辺道に戻ると、池に囲まれた西山塚古墳がある。115mあった前方後円墳の段丘に、今は果樹が植えられている。この辺りに存在する6世紀の前方後円墳が唯一この古墳であることから、この古墳が真の手白香皇女の陵墓だといわれている。墳丘の形も、後期古墳にしては後方部よりも後円部が高く、子の欽明の見瀬丸山古墳と同じである。埴輪は高槻の新池窯の埴輪ではなく、胎土分析の結果、菅原東遺跡の埴輪窯で作られた埴輪であることが分かった(清水、228)。

 

継体の今城塚古墳は高槻にあるのに、正妃の手白香皇女の陵墓はこの柳本古墳群にある。手白香皇女の母は雄略の娘で、春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)だから、和珥氏の出身のようだ。和珥氏が奈良市の北郊に移って春日氏と名を変える以前は、この辺りにいたので、母方の本拠地に墓を営んだということなのだろう。

 

私が常々不思議に思っていたことがある。継体が樟葉宮で即位したのが、継体元年(507)、57才の時である。多くの文献には仁賢の娘の手白香皇女を皇后にしてから、大和入りを果たしたように書いてあるので、77才で皇后を迎え、その後に欽明が生まれたと思っていた。随分、元気のいいお年寄りだと思った。

 

日本書紀をみると、継体が樟葉宮で即位した元年の35日に、手白香皇女を皇后に立てたとある。やがて後の欽明(29)が生まれた。欽明は嫡妻の子であったが、まだ幼かったので、二人の兄が国政を執った後、天下を治めたと記されている。続く314日には8人の妃を召し入れた。元の妃である尾張連草香の娘、目子媛(めのこひめ)の子が後の安閑(27)と宣化(28)であり、さらに他の妃の子の名前が挙げられている。欽明は継体が数えの5758才頃の子だと考えられるので、それなら子を作るのに無理な話ではない。

 

継体の後を継いだ安閑は、即位後2年、70才で亡くなり、子はなかった。次の宣化は、即位後4年、73才で亡くなった。宣化には13女がいて、長女の石姫皇女は欽明の妃となり、男子は地方豪族の祖となった。欽明の成長を待ち、王位はスムーズにつながったように見える。

 

いや、そうではなかったのだという上田正昭らの説がある。疑惑の発端は、日本書紀の注釈にある。日本書紀は、参考にした文献の諸説を、ある文献にはこう、この文献にはこうと列記している。今時の下手なブログよりもよほど学問的なのだ。

 

継体の死については、「ある本では継体の崩御は継体28年だが、百済本記では25年となっているので、25年を採用したが、聞くところによると、日本の天皇および皇太子、皇子皆死んでしまった」と注釈されている。まるで、王室内部でとんでもないことが起きたかのような言い方なのだ。

 

さらに上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記事では、欽明の治世を逆算すると、欽明は継体の亡くなった年に即位したことになるという。また日本書紀の紀年では継体は25年に崩御し、安閑はその2年後に即位したことになる。ところが本文には、安閑は継体が亡くなる直前に即位したと記されており、2年のぶれがある。それらのことを総合すると、継体の死後即位したのは欽明であり、2年後に安閑が擁立され、二つの王朝が並立したと考えた方が辻褄があうという話だ。

 

二王朝の並立説は、手白香皇女の血脈である和珥や葛城の臣グループが擁立した欽明に対して、河内系氏族である大伴氏と結んだ尾張の勢力が安閑を擁立して、巻き返しを図ったために起きたと考えられている。その背景には、日本書紀の安閑2年(535)に、筑紫、豊、肥、吉備、毛野の13カ国に26屯倉(みやけ)を設置したという記事があるが、この時代に大和王権が各地の豪族の支配地に屯倉を設置し、富を収奪していたので、地方豪族の不満が高まっていたことがあるという。朝鮮半島への出兵計画を契機とした527年の筑紫国造の磐井の反乱も、534年の毛野国造の同族同士の紛争も、地方豪族の不満が根底にあったとする。そういう地方と王権の軋轢の中で、二王権が並立するという異常な時代があったと考えるわけだ。

 

ところで、82才の継体が亡くなった時の安閑の年令は、空位2年在位2年として、70才から4引いて66才。継体が16才の時の子ということになる。若い時も結構元気だったと安心した。

 

参考文献

1)上田正昭:大和朝廷 古代王権の成立、講談社学術文庫、1995

2)清水眞一:玉穂宮・手白香媛の墓:森浩一、門脇禎二編:継体王朝 古代史の謎に挑む、2152292000

3)松本洋明:巨大前方後円墳は初期大和政権の王墓か、歴史読本、日本古代史「謎」の最前線 発掘リポート1995294-2971995