のむけはえぐすり 第43弾 原善三郎の話 その23 外国銀行2007年01月05日 21時40分58秒


のむけはえぐすり 第43弾
原善三郎の話 その23 外国銀行

 外国銀行側から見た日本政府の洋銀対策について、ある外国銀行の通訳の話。

 最初に横浜に作られた外国銀行は、Central Bank of West Indiaで、その後いくつかの外国銀行が文久年間(1861頃)に開業しました。

 その多くは、慶応2年(1866)のロンドンの割引会社オーバーレンド・ガーニー商会の破綻や、明治3年(1870)から始まった銀価下落によって破産しました。

結局生き残った銀行は、東洋一と言われたOriental Bank(東洋銀行)、P&O汽船会社やデント商会が中心となって設立されたHongkong and Shanghai Banking Corporation(香港上海銀行)、絹織物の産地リヨンをひかえたフランス系のComptoir d'Escompte de Paris(コントワール・デスコンテ銀行)、明治14年に遅れてやってきたCharterd Bank of India, Australia and China(チャータード銀行)、大蔵省御雇英人のA.A.シャンドさんがいたChartered Mercantile Bank of India, London and China(マーカンタイル銀行)の五つです。
 
 とりわけCharteredがついていると、United Kingdomの為替を扱う勅許状(Charter)を持っているということで、一目置かれる存在でした。

 開港当初、外国銀行は小切手やら洋銀券を発行して、日本商人を煙に巻いていました。 
 ところが、外国銀行の洋銀券が通貨のように扱われ始めたのには、日本政府も困っていました。日本政府は横浜為替会社を作り、独自の洋銀券を発行し、外国銀行の洋銀券を市場から無くそうとしたのです。

 国立銀行条例ができた時も、横浜の国立第二銀行だけは特別扱いで、引き続き洋銀券を発行していました。新しい洋銀券が間に合わなかったらしく、横浜為替会社の洋銀券の裏に、「改第弐國立銀行」と朱印を押しただけものもありました。

 外国銀行側はそんなものは信じられないと、日本の銀行と外国銀行の預け入れの金利に差をつけ、5万ドルの洋銀を東洋銀行に無利子で預けさせました。明治14年に日本政府がその5万ドルの金利を支払うように要求してきたので、断ると、その洋銀が引き出されました。日本側が強気になってきているのを感じたのは、その頃からです。

 そのうち、外国銀行の洋銀券は危ないから使わないようにと、日本政府が宣伝をし始めました。外国銀行側も、コントワール・デスコンテ銀行が中心となって、国立第二銀行の洋銀券をボイコットするように申し合わせました。
そこには東洋銀行は、参加しませんでした。洋銀券を発行していないと言うだけではなく、それ以外にも東洋銀行には一方ならぬ恩があるように見受けられました。明治17年(1884)に東洋銀行が破産する時も、日本政府は相当配慮していましたから。

明治17年(1884)に日本銀行が銀貨兌換券を発行してからは、洋銀券は双方とも急速に市場から消えていきました。

 とにかく、外国銀行は支店ができる端から消えてしまうという有様で、20世紀まで残った銀行は香港上海銀行とチャータード銀行ぐらいなものです。
 記念に、東洋銀行があった山下11番、今のスターホテルのお写真をつけておきます。赤いシェードのある隣のビルは、ニューグランドホテルです。

 エ!? 私ですか? 今は外資系のファンドで、相変わらず通訳をやっています。
バブルで破産した日本の銀行で、ジッパリ儲けさせていただいています。国のことより選挙ばかりを気にする政治家や、その顔色をうかがう官僚が率いる今の日本などは、昔から比べれば、チョロいもンですヨ。

 参考文献
1)立脇和夫:明治政府と英国東洋銀行、中央公論社、1992