のむけはえぐすり 第78弾 原善三郎の話 その56 ジャーディン・マセソン商会 帝国主義的自由貿易主義2008年01月08日 20時42分51秒

のむけはえぐすり 東洋文庫のMorisonさんの“Photographic Views of Canton”にある「広東の古い工場の跡」

のむけはえぐすり 第78弾

原善三郎の話 その56 ジャーディン・マセソン商会 帝国主義的自由貿易主義

  ここでは、噂されているジャーディン・マセソン商会のアヘン戦争への関与を調べてみよう。

  まず、ジャーディン・マセソン商会とアヘンとの関わりだが、1832年に開業してから4年目にあたる1836年の、ジャーディン・マセソン商会の主要商品の仕入額を見てみる(「近代中国とイギリス資本」、67p)。     輸入では、アヘンが476万ドル、インドの綿花214万ドル、繊維製品60万ドル。輸出では、茶が274万ドル、生糸が232万ドルとなっている。全仕入額のうち、アヘンが4割、茶と生糸がそれぞれ2割前後と、確かに、アヘン戦争以前には、アヘンがジャーディン・マセソン商会の主たる貿易商品であったことが分かる。

  当時中国にいた欧米の貿易商社は、例外はあったようだが、どこも同じようにアヘンを扱っていた。ただ、ジャーディンさんの会社のアヘンの取扱量は、1829年には既に、中国へのアヘンの全輸入額の3分の1を占めていたというから、貿易商社の中でも突出していたことは確かなようだ。

  それに匹敵していたのが、サスーン商会だった。   創業者のサスーンさんは1830年にイランからユダヤ人が追放された時にペルシャに逃れ、ペルシャの内乱に乗じてアヘンで大儲けした。サスーンさんはその資金で東インド会社の許可証を手に入れ、ボンベイでサスーン商会を設立し、その後中国にやって来た。だから、サスーン商会のアヘンは産地直輸入だった。これに対して、ジャーディン・マセソン商会のアヘンは、捕虜仲間のJamsetjee Jejeebhoyさんを初めとしたインドのパーシー教徒の現地商人に依存していた。このことはやがて、ジャーディン・マセソン商会がサスーン商会とのアヘンの価格競争に敗れ、1885年にはアヘン貿易から撤退する要因のひとつにもなっている。

  デント商会はサスーン商会の後にやってきたアヘン貿易のライバルだが、考え方が違っていた。というのは、デント商会は1833年に東インド会社の貿易独占が廃止されても、旧体制を維持しようという保守的な考えを持ち、Tory(保守党)の流れを汲んでいたからだ。

  この点、多くの商人がそうであったように、ジャーディン・マセソン商会の二人は、いわゆる自由貿易主義者で、Whigs(自由党)の考え方であった。だが、二人の場合は、自由貿易主義者であっただけでなく、過激といえるほどの「帝国主義的」がついていた。

  自由貿易を阻んでいた要因のひとつ、東インド会社による貿易独占は1833年に廃止された。だが、残るもうひとつの要因、清朝政府の市場開放に閉鎖的な態度をうち破るには、イギリスの武力による強硬手段しかないと、二人は考えていた。かねてから、二人はイギリス議会や政府に請願書を提出していた。

  東インド会社の監督がいなくなり、代わって1834年に本国から商務長官として、ネピアさんが派遣されてきた。ネピアさんは就任して間もなく、清朝政府との小競り合いの最中、病気によって無念の最期を遂げた。Mathesonさんはネピアさんの遺族と共にイギリスに戻り、世間の同情を誘い、中国貿易の現状を訴えるエッセイを出版するなどして、中国に対する過激な世論を煽った。     Jardineさんは1839年3月に会社を辞めて帰国し、ジャーディン・マセソン商会の恩人とも言うべきマニアックさんがロンドンで作った会社、マニアック・スミス商会のパートナーになった。そこのパートナーの一人、スミスさんは、時の外務大臣、パーマストンさんの友人だったので、このルートでも盛んに強硬路線を働きかけた。

  さらに、Jardineさんは、中国における綿製品の市場の拡大に期待したマンチェスターの商人達をも、抱き込むことに成功した。

  1840年4月、「かくも永続的に不名誉となる戦争を、私はかつて知らないし、読んだこともない」という自由党のグラッドストーンの反対演説の後、アヘン戦争への戦費支出は自由党政権のもと、賛成271票、反対262票で可決された。 

  マカオにあったジャーディン・マセソン商会が、アヘン戦争に主導的に関わったことは間違いないようだ。

  写真は、東洋文庫のMorisonさんの“Photographic Views of Canton”にある「広東の古い工場の跡」である。貧しい中国人の家に囲まれた白い壁の工場が見える。帝国主義的自由貿易主義が作ろうとしたものは、このような風景なのだろう。  

参考文献

1)陳舜臣:実録アヘン戦争、中公文庫、1995

2)石井摩耶子:近代中国とイギリス資本 19世紀後半のジャーディン・マセソン商会を中心に、東京大学出版会、1998

3)Maggie Keswick:The thistle and the jade A celebration of 150 years of Jardine, Matheson & Co., Octopus Books Limited, London, 1982

コメント

_ のむけはえぐすりの訂正(4) ― 2008年01月27日 09時29分23秒

「広東の古い工場の跡」と、factoryを工場と訳しましたが、factoryは中国では「夷館」と呼ばれ、外国商館という訳もありました。「広東の古い外国商館の跡」と訂正します。

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