第164弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 伊夫岐神社2010年10月11日 07時24分09秒






第164弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人  伊夫岐神社

 

冬に近江に来た時のことを思い出した。新横浜を出る時、「積雪のため、関ヶ原徐行運転中」と新幹線の案内が出ていた。案の定、大垣を過ぎた頃から、ちらちらと雪が舞い始め、関ヶ原の辺りでは薄暗く30cmはあろうかという積雪に包まれていた。

 

 冬場には、季節風が若狭湾から伊吹山をすり抜け、伊吹おろしとなって濃尾平野に吹き付ける。風の回廊になっている伊吹山の西麓は、日本有数の豪雪地帯として名高い。この風が吹き抜ける様から伊吹と称し、製鉄のタタラ炉に風を送り込む、息吹くことによる地名だという説もある。古代の伊吹山は鉄の産地でもあった。

 

 そして今、暑い夏の盛りに再び近江を訪れている。国道365号線を右に折れ、姉川沿いに深い緑に覆われた伊吹山へと向かう。麓の伊吹集落に、写真の伊夫岐神社がある。石碑には「式内郷社 伊夫岐神社」と大書され、裏には「明治453月建立」とある。

 

 祭神は伊吹大神となっているが、多々美比古命(たたみひこのみこと)、八岐大蛇、須佐之男命など諸説あるようだ。古代の製鉄に関わる集団の祖神であったという説もある。奈良時代の「帝王編年記」によれば、多々美比古は霜速比古命(しもはやひこのみこと)の子で、夷服(いぶき)の岳の神だとされている。近くの浅井の岳の神様と山の高さを競った時に、浅井の岳が一夜にして高さを増した。怒った多々美比古命が浅井の岳の神様の首を切ると、首は琵琶湖に落ちて竹生島になったという言い伝えがある。

 

 他にも、伊吹山には記紀に記された倭健命(やまとたけるのみこと)の伝承がある。ここでは一大ロマンとして語られる古事記の記述でとりあげてみる。

 

 倭健命は景行天皇(12)の子で、幼名を小碓命(おうすのみこと)という。物語は前段の西国遠征と、後段の東国遠征に分かれる。西国遠征での倭健命は、勇ましく知略に富む英雄として描かれている。熊曽征伐では女装して宴席に出て、熊曽建(くまそたける)を討ち取った。いまわの際に、熊曽建から倭の建の名を譲られたという。出雲征伐では相手の太刀を木刀にすり替えて、出雲建を討った。西国を平定して戻ると、あまりの強さに恐れをなした景行天皇から、休む間もなく東国遠征を命じられる。

 

 後段の東国遠征からは、父王に疎まれた悲劇の英雄として描かれる。伊勢の斎宮となっていた叔母の倭比売命のもとに立ち寄り、「父は自分に死ねと思っている」と父の仕打ちを嘆く。哀れに思った倭比売命は倭健命に、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)と火打ち石の入った御嚢(みふくろ)を授けた。

 

相模国では国造に欺かれ、野原で焼き討ちにあう。火に囲まれた倭健命と妃の弟橘比売(おとたちばなひめ)は、草那芸剣で周りの草を刈り、御嚢から取り出した火打ち石で迎え火をして窮地を脱した。国造たちは滅ぼされ、死体が焼かれた場所を焼津という。

 

三浦半島の走水の沖では、一行が荒れ狂う海に立ち往生した。妃の弟橘比売は荒れる海を鎮めるために海に身を投げ、最後に残した歌がある。

「さねさし さがむのをの もゆる火の ほなかに立ちて 問いしきみはも」(相模の小野で 燃え盛る火の中で 私のことを気遣ってくださったあなたでした)

 

遠征からの帰途、足柄にさしかかった倭健命は相模湾を眺めながら、「あずまやは」と弟橘比売を偲んだ。それから、足柄より東国を吾妻というようになったという。

 

数々のエピソードを残しながら甲斐、信濃と遠征を続けた倭健命は、尾張へに行き、熱田神宮ゆかりの美夜受比売(みやいずひめ)と結婚した。

 

倭健命は美夜受比売のもとに草那芸剣をおいて、伊吹山の神を征服に向かった。伊吹山の麓で牛ほどもある白猪に出会った。倭健命はその白猪を山の神のお使いだと思い、「今殺さなくとも、後で退治しよう」と、さらに山奥へ向かった。ところが、この白猪は山の神のお使いではなく、神様自身であった。プライドを傷つけられた山の神は荒れ狂い、空は一天かき曇り、大粒の雹(ひょう)が降り、つぶてとなって倭健命を打ちつけた。半死半生で山を下りた倭健命は、麓の玉倉部の清水にたどり着いてのどを潤すと、やっと正気に戻った。この清水を居寤(いさめ)の清水という。

 

衰弱した倭健命は悪路に足を痛め、腫れ上がった足を引きずりながら、倭へと向かう。途中、杖をついて歩いた坂を、杖衝坂(つえつきさか)という。ようやく能煩野(のぼの)にたどり着いた倭健命は、懐かしいふるさとの倭を思い浮かべながら、歌を残して息絶えた。

「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまごも)れる 倭しはうるわし」

(倭の国はすばらしい たたみ連なる青々とした垣のように 山々に囲まれた 倭は美しい)

死後、倭健命の魂は八尋もの白鳥となって倭を目指して飛んでいった。

 

 伊吹山には倭健命の有名な伝承があるのに、伊夫岐神社に祀られていたのは伊吹山の神であり、倭建命ではなかった。それは、この地方にもともとあった信仰が、伊吹山を聖なる神のいる山とみる伊吹信仰なのであって、倭建命とは関係がなかったからだ。

 

倭建命の物語は、中央や地方の豪族に伝わる伝承をつなぎ合わせたといわれている。伊吹山の伝承のうち、倭建命の死に結びつく最後の戦いを創作したのは、草那芸剣を伝世していた熱田神宮の尾張国造家であり、その地を伊吹山に求めたのは、自らの祖を倭建命に結びつけたかった息長氏だったという。

 

そして、伊吹山の神の化身を白猪にしたのは、冬に豪雪をもたらす風の回廊の住人たちだったからという話もある。

 

参考文献

1)谷川健一編:日本の神々 山城近江、白水社、2009

2)横田健一:ヤマトタケル、徹底比較 古事記・日本書紀と古代史料、歴史読本、444)、116-、新人物往来社、1999

3)三浦佑之:口語訳 古事記、文藝春秋、2002

4)伊吹町史編さん委員会編集:伊吹町史 通史編上、1997



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