第179弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 新羅の白髭神社2012年01月31日 02時55分34秒








第179弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 新羅の白髭神社

 

琵琶湖西岸の湖水浴を楽しむ車の渋滞に紛れながら、161号線を南下する。高島平野が終わり、比良山地の山並が湖に迫る辺りで、左手の湖の中にくすんだ朱色の鳥居が見えてくる。

 

不思議な光景である。湖岸から50mほど離れているのだろうか。湖には風もなく、波は静かで、夏の午後の日差しの中に、ぽつんと立っている。鳥居の柱を前後から支えるように稚児柱が設けられ、厳島神社の宮島鳥居に似て、両部鳥居と呼ばれている形式である。両部とは真言宗の立場から神道を解釈する際の神仏習合思想である両部神道からとった名称であるらしい。

 

14世紀ごろの「比良庄堺相輪絵図」には、鳥居が陸上に描かれている。それが琵琶湖の水位が変化するうちに湖の中に孤立し、16世紀の「江源武鑑」に記されている鳥居は湖上に立っている。白髭神社の境内にある鳥居復興碑には、昭和12年に大阪の薬問屋の小西久兵衛が荒廃した鳥居を立て替え、今の鳥居は昭和56年の復興事業で建立されたものだとある。

 

白髭神社の主祭神は猿田彦命だが、別社には白髭大明神、比良明神がある。白髭神社の言い伝えにはそれぞれの伝承がからみあって、ごちゃまぜになっている。

 

例えば、白髭神社の白髭とは、爾爾芸命(ににぎのみこと)が天孫降臨する際に道案内をした猿田彦命の髭のことだという話がある。そうかと思えば、白髭は新羅が転化した名で新羅系の帰化人が関係しているという話がある。さらに、白髭明神とこの地方の地主神である比良明神は同じだという話がある。比良明神が白髭の老人として近江地方の伝承にたびたび登場するのだが、それがまた謡曲「白髭」と白髭神社縁起では似ているようで違っているところがまた悩ましい。

 

今回はその中でも新羅系の帰化人との関係について調べてみた。

 

白髭神社はこの近江の白髭神社を総本社として、全国各地に150以上の分霊社がある。関東にも白髭神社は多く、東京墨田区の白髭橋の近くにある白髭神社はとりわけ有名で、951年に慈覚大師が近江から勧請したとされている。ところが、関東では近江の白髭神社の分社である白髭神社以外に、埼玉県高麗郡にある高麗(こま)神社の分社となっている白髭神社がある。

 

高麗(こま)神社とは高句麗からの帰化人、若光王を祀る神社である。高句麗の王族であった若光王は666年に高句麗から帰化して相模国大磯に居住していた。716年に武蔵国高麗郡の郡令となり、関東近辺に散在していた高句麗人1799人をまとめて移住した。今の埼玉県高麗の辺りだ。若光王が748年に亡くなると、高麗明神として高麗神社に祀られたが、若光王は晩年白髭の老人であったことから、古くからあった白髭神社に祀られていた白髭明神と同一視された。金達寿氏も白髭神社は新羅系のはずなのに高句麗の若光を祀るのは変だと思ってはいたが、高麗明神と白髭明神が一緒だという俗説に惑わされたと話している(金、57p)。

 

白髭神社を渡来系の神社とする「日本の神々」に紹介されている説は、言語学的な立場からのものだ。白髭(はくしゅ)は百済(ひゃくさい)のことであり、その百済も仮借字で、本当は韓国語でクナル、すなわち大国という意味だというのだ。

 

また、白髭神社のように白の字がつく神社は、帰化人由来の神社だとする説も根強い(川口、451p)。とりわけ白髭は「新羅」が転化した言葉で、他に白木、白城、白子白石、白山などがあり、白山(はくさん)神社も新羅の白山が語源となっているというのだ(金、81p)。現に、白山比咩(しらやまひめ)神社は、開祖である帰化系氏族の三神安角の子、泰澄が、717年に白山に登り、朝鮮の巫女、菊理姫(白山貴女)をその山頂に奉祭したのが始まりである。

 

白髭神社が新羅からの帰化人の関係する神社だったとすると、近くに新羅系の帰化人が住んでいたのだろうか?

 

今回、車で南下して来る途中、高島の勝野漁港を過ぎ、湖と山の隘路になった白髭神社の辺りがちょうど高島郡と滋賀郡の郡境になっている。高島郡に隣接する滋賀郡の真野鄕には真野氏がいたのだが、新撰姓氏録によれば、真野氏は先祖が新羅に出かけた時に新羅の女王と結婚して生まれた子だと記されている。白髭神社を氏神とした新羅の帰化氏族は真野氏の関係であった可能性はありそうだ。一方、高島郡の側に新羅系の帰化人がいた可能性はどうだろうか?

 

白髭神社の境内に、「紫式部の歌碑」がある。

 

 近江の海にて三尾が崎というところに網引くをみて

 「三尾の海に 網引く民の てまもなく 立ち居につけて 都恋しも」

 

源氏物語の作者、紫式部が平安時代の996年に越前の国司となった父、藤原為時に従って越前に向かう途中、一行が逢坂山を越え、大津から船に乗り、この辺りを通った時に、漁民が猟をする姿を見て紫式部が詠んだ歌である。

 

その日の泊まりは高島郡勝野である。先ほど通過してきた高島平野の南のはずれにある漁港のことである。次の日には塩津から越前国府の武生に下ったというから、新羅神社の高島郡側は古来より琵琶湖を船で渡る時の中継点になっていたようだ。

 

当然、朝鮮半島と行き来する人々が京から敦賀へと向かう時にも利用されていただろう。そういう場所なら古くから新羅からの帰化人が住んでいた可能性はあると思った。

 

参考文献

1)金達寿:古代朝鮮と日本文化、神々のふるさと、講談社学術文庫2000

2)谷川健一編:日本の神々 神社と聖地5 山城近江、白水社2009

3)川口謙二編:日本の神様読み解き事典、柏書房2007

 


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