第119弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 高句麗滅亡2009年03月01日 23時19分34秒

第119弾  のむけはえぐすり;忠州の中原高句麗碑の保護閣の建立記

第119弾  のむけはえぐすり
古代の帰化人 高句麗滅亡

 百済が滅亡し復興の夢も潰えた後にも、朝鮮半島からの集団帰化が続く。朝鮮半島では668年に高句麗(コグリョ)が滅んだ。

 高句麗は日本にとって新羅や百済ほど馴染みはないので、高句麗の歴史から紹介する。

 中国東北部を流れる松花江流域に、扶余族が住んでいた。扶余族は二つに分かれ、一方は南下して今の北朝鮮の咸鏡道に定住した。それが東扶余(トンプヨ)である。東扶余の王のもとで河の神の娘が産んだ卵から、韓国ドラマにもなった朱蒙(チュモン)が生まれた。朱蒙は弓の名手で、その才気を妬んだ兄弟たちによって命を狙われ、今の中国の遼寧省に逃げた。そこで建てた国の名を高句麗とし、自らの姓を高と改め、東明聖王を名乗った。紀元前37年だという。

 ここから、話は百済の建国神話へとつながる。
 高句麗王となった朱蒙は周辺部族から王妃を迎え、生まれたのが沸流(ピリュ)と温祚(オンジョ)という二人の息子。そこに朱蒙の御落胤だと名乗る瑠璃(ユリ)という若者が、東扶余からやって来た。DNA鑑定の結果も待たず、早々と朱蒙は瑠璃を世継ぎに決定する。先妻の子に追い出された形で、沸流と温祚は高句麗を去った。温祚の方は今の韓国の漢江の北に国を作り、名前を百済とした。

 高句麗はその後も領土を広げ、東扶余を併合し、朝鮮半島北部を支配下に治めた。同じ頃建国した百済や新羅と領土争いを繰り広げ、371年には高句麗の故国原王(第16代)が百済の近肖古王(13)との戦いで戦死したり、404年には広開土王(19、またの名を好太王)が倭と伽耶の連合軍を撃退したり、475年には百済の都の漢城に攻め入って蓋鹵王(ケロ、21)を殺害したり、骨肉の争いを繰り返した。この間、414年には広開土王の業績を讃えた広開土王陵碑を中国吉林省に建て、427年には今の平壌に都を移している。

 隋や唐が何故それほどまでに、高句麗征服にこだわったか、よく分からない。高句麗が国境の脅威になっていたという説、同じ遊牧民族の鮮卑出身の隋の煬帝が遼河の先の高句麗の領土を欲しがったという説などがある。煬帝は高句麗の人口に匹敵する200万もの軍勢で遠征したが、高句麗は3万の軍で凌いでいる。

 隋から唐に変わっても、高句麗への遠征は止む気配がない。唐の侵攻に備えた長城建設をめぐって高句麗ではクーデターが起き、642年に栄留王(27)は淵蓋蘇文(ヨンゲーソムン)によって殺害された。淵蓋蘇文は栄留王の甥を宝蔵王(28)に据え、自身は高句麗の最高位の莫離支となって実権を握った。

 645年、唐の太宗は20万の兵で高句麗に攻め込んだ。攻城戦の間に太宗自身が右目を射られるハプニングがあり、太宗はわずかな兵と共に長安に逃げ帰った。雪辱に燃える太宗は次々と遠征軍を送るが、その度に淵蓋蘇文によって阻まれ、とうとう高句麗への出兵を禁止する遺言を残して、649年に太宗が死んだ。

 太宗のあとを継いだ高宗は、高句麗遠征をあきらめたかに見えた。ところが、淵蓋蘇文は百済と共に新羅に侵入した。新羅から援軍の要請があり、高宗は蘇定方を総大将とする唐軍10万の援軍を派遣した。援軍の知らせを聞いて、百済と高句麗はあっさり兵を引いた。

 その後、唐の高宗は660年に高句麗を避け、海路百済に遠征し、新羅と連合して百済を滅ぼした。唐の蘇定方将軍は百済の捕虜を連れて長安に凱旋したが、高宗の命によって休む間もなく高句麗へと向かわされた。この遠征も大した戦果が挙げられなかった。

 666年、淵蓋蘇文が没した。

 淵蓋蘇文には子供が3人いたが、かねてより不仲の噂が絶えなかった。長男の男生が莫離支に就くと不仲は表面化する。男生が地方視察に赴いたところを狙い、弟たちが画策する。挑発に乗った男生に、弟たちは追討軍を差し向ける。よりによって男生は唐に逃げる。この機を逃さず、唐の高宗は高句麗へ遠征する。淵蓋蘇文亡きあと戦意が失せた高句麗の城を、唐軍は次々と抜いて平壌に迫る。これに呼応して新羅の文武王と金庾信将軍も、降伏した高句麗の宰相を先導にして平壌へと向かう。

 唐と新羅の連合軍が平壌城に籠もる高句麗兵と対峙して1ヶ月も経った頃、城内にいた僧兵の裏切りによって平壌城は落ちた。最後まで抵抗した男建と、高句麗に逃げていた百済の豊王は流罪となり、それぞれ流刑地で没した。

 この高句麗滅亡の際にも、高句麗人の集団帰化があった。
 滅亡の2年前から、高句麗王族の若光は今の神奈川県の大磯の郡長となって、高句麗からの帰化人と共に住んでいた。大磯の高麗(こま)町には高来(たかく)神社が今も残っている。高来は高麗(コウライ)に通じる。高句麗は高麗ともいうらしい。
 韓国の忠州に高句麗がそこまで南下したことを記念して、475年に高句麗が建てた中原高句麗碑がある。その碑文の中で、高句麗自らが高麗を名乗っている。写真は中原高句麗碑の保護閣の建立記で、解説の中程に「高麗大王」の文字が確かに見える。
 716年に若光は今の埼玉県の高麗郡の大領(長官)なり、関東周辺に住む高句麗人1779人を集め移住したと、「続日本紀」に記されている。
 
 参考文献
1)片野次雄:戦乱三国のコリア史、高句麗・百済・新羅の英雄たち、彩流社、2007
2)水野俊平、李景珉:韓国の歴史、河出書房新社、2008
3)金達寿:古代朝鮮と日本文化 神々のふるさと、講談社学術文庫、2000

コメント

_ まりあぱぱ ― 2009年03月03日 17時01分28秒

なるほど。これが朱蒙の話のスタートなんですね。 今日も勉強になりました! のむけ氏、引き続き期待しております。頑張って下さい!

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