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第131弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 高句麗の帰化人 八坂神社 ― 2009年08月06日 23時29分13秒
第131弾 のむけはえぐすり
古代の帰化人 高句麗の帰化人 八坂神社
写真は、京都の四条通と東大路通の交差点にある八坂神社の西楼門である。渡ろうとする通りには、車と人通りが絶えない。奥には円山公園と知恩院があり、京都の市内観光の名所の一つになっている。
八坂神社の地には、明治初年まで二つの神社と一つの寺が並立していた。このような神社とお寺が共存する形態を神仏習合といい、珍しいことではない。
古来、日本には八百万の神々が祀られていたが、そこに仏教が入って来た。日本の神々は嫉妬もするし、人間と変わらない欲望もあり、苦しみも悲しみもある。実に人間くさいのである。悟りを開いた仏様とは、ハナから違う。となると、人間と同じように神様も苦しみから逃れ、仏の救済を望むと考えられた。そのため、8世紀後半から9世紀初めにかけて、神社の中に神宮寺が盛んに建てられるようになった。同時に、それまでの日本の神々は様々な仏の化身ということにされ、牛頭天王の場合は素戔嗚尊になぞらえた。迹(あと)を垂(た)れると書いて、垂迹(すいじゃく)説という考え方だ。
このような神仏習合は寺院の側からもあり、奈良の興福寺の春日大社の例もあるが、東大寺には宇佐八幡神社、東寺には伏見稲荷神社が守護神として祀られるようになったことは、これまでの「のむけはえぐすり」の中でも述べた。
二社一寺のうち、一社は斉明天皇の656年、高句麗からの使者、伊利之使主(いりしおみ)が二度目に渡来した折、新羅の牛頭山にいた素戔嗚尊の御魂を勧請して建てられた八坂社だ。伊利之使主はこの地に住み、八坂造の姓を賜ったという。
もう一社は、876年の疫病の流行を機に建てられた牛頭天王社である。残る一寺は、平安時代の934年に建立された祇園寺である。これらの二社一寺は夏祭りの祇園会を中心に合体し、昔は祇園社、牛頭天王などと呼ばれていた。それが、明治初年に八坂神社となったのは、明治政府によって神道を国教とするために、神仏分離令が公布されたからだ。
八坂社を建立した高句麗の帰化人が、新羅にいた素戔嗚尊を勧請したというのも不思議な話だ。
「天の岩戸」の騒ぎの後、弟の素戔嗚尊の悪行に手を焼いた天照大神は、素戔嗚尊を懲らしめ、天上から追い出した。追い出された素戔嗚尊が降り立った先は、日本書紀には諸説が並べられているが、大方の書では出雲の国の斐伊川の上流だとされる。中に「一書に曰く・・」と書かれているのは、素戔嗚尊は息子の五十猛神(いたけるのかみ)とともに、新羅の国の曾尸茂梨(ソシモリ)に降ったとある。結局は、そこもお気に召さなかったようで、さらに埴土(はに)の舟で出雲にやって来たと書かれている(日本書紀、巻第一、100p)。
ソシモリという地名が、現代の韓国語でもソは牛、モリは頭という意味で、まさに牛頭である。ソシモリは現代の江原道春川郡牛頭山に比定されている。韓国ドラマの「冬のソナタ」の舞台にもなった春川市は、ソウルから北東にかなり入った内陸の町で、江原道の道庁所在地である。韓国でも北の方にある春川は、かつて高句麗の領土だったはずだ。日本書紀が編纂された奈良時代の720年頃には新羅に統一されているので、伽耶が新羅と混同されていたように、かつて高句麗にあったソシモリを新羅と書いたのかも知れない。
平家物語の冒頭の名調子、「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり」に祇園が出てくる。祇園精舎とは、ギジュギッコドクオン精舎(僧院)という古代インドの仏教寺院のことで、この祇園精舎の守護神が牛頭天王だった。だから、素戔嗚尊や牛頭天王を祀る二社一寺は祇園社と呼ばれ、疫病退散の神として信仰されていた。この祇園信仰が、平安時代に怨霊を慰める御霊信仰と結びついていく。
中大兄皇子とともに大化の改新で蘇我氏を滅ぼした中臣鎌足は、藤原の姓を賜った。鎌足の子、不比等の時代になると、娘の宮子を文武天皇の妃とし、後の聖武天皇が生まれた。その聖武天皇にはもう一人の娘の光明子を后とし、後の孝謙天皇が生まれた。天皇家の外戚となった不比等の4人の息子たちは、権勢を誇った。それに立ち向かったのが、天武天皇の子である武市皇子の長男、長屋王である。729年、藤原4兄弟は長屋王の皇位継承を防ぐため、謀反の疑いをかけ、自殺に追い込んだ。
「長屋王の変」の後、藤原4兄弟は天然痘に罹り、全滅してしまう。誰もが、長屋王の祟りと畏れた。同じように、藤原氏の権力闘争の犠牲になった政敵は多い。天災や流行病のあるたびに、政争に敗れて亡くなった貴族たちの怨霊の仕業と畏れた。
876年に、疫病退散を祈願して66本の鉾を建て、祇園の御霊会が行われた。これが祇園祭の始まりである。970年以降、国家的な行事として恒例化していった。一時すたれることもあったが、室町時代に復活した祇園祭では、山鉾の豪華さを競い合うようになった。祇園の御霊会は、疫病が流行し、稲作が病虫害に悩まされやすい夏の時期に行われる夏祭りとして、全国に広まっていった。
参考文献
1)川口謙二編:日本の神様読み解き事典、柏書房、2007
2)坂本太郎他校注:日本書紀(1)、岩波文庫、1997
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