第19弾 原善三郎の話 その1 中居屋重兵衛2006年07月14日 22時57分14秒


のむけはえぐすり
 第19弾 原善三郎の話  その1 中居屋重兵衛

 原さんの三渓園は知っていても、原財閥の創始者である原善三郎が何をした人か、知る人は少ない。これから何回かに渡り、原善三郎の話をしながら、フライペン周辺にあるゆかりの地を散策してみるつもりだ。
 
 善三郎は、1827年に埼玉県渡瀬村で生まれ、7人兄弟の長男である。
 家業は、上州秩父の絹を江戸の呉服屋へ送る仲買をしている。それ以外にも農業、醸造、質屋、製材などを営んで、なかなかの羽振りの家である。
 最終学歴は、寺子屋。一日も休まずというのが、その当時のほめ言葉にあたるかどうか、ともかく几帳面な子である。とびっきり優秀だったという話はない。
 12才から、家業を手伝う。毎日、朝早くから歩いて秩父まで絹糸を買い付けに行き、夜遅く戻って来るというオーバーワークも経験する。絹糸に関してはかなりな目利きという評判で、余計なことを言わずにまじめに働く。
 21才(1847年)で、隣町の加藤嘉右衛門の娘、一才年上の「もん」と結婚する。その4年後には、一人娘の八重が生まれる。
 
 1853年、蒸気船が浦賀に来航する。1859年、幕府はしぶしぶ日米通商条約を締結し、横浜を開港する。開港から3ヶ月後、善三郎は横浜に単身赴任する。慣れない外油の買い付けで危ない橋を渡ったこともあるが、本来の生糸の商いで、当時隆盛を極めていた中居屋の荷主となる。

 その中居屋のあるじ、重兵衛が、横浜絹商人の元祖である。横浜開港と同時に、幕府から会津藩などの産物を扱う藩専売の売込商に指定され、諸藩の「御用」を勤めたことが始まりである。あまりに儲けすぎて、お上からお取り潰しの憂き目にあう。そういう場合、たいてい理由はあとからついてくる。生活が奢侈すぎたとか、絹の取引限度量を守らなかったとか、勤王派にお金渡したとか。私に言わせれば、ただ邪魔になっただけ。
 
 常盤町3丁目のフライペンから桜通を海岸通に向かって200mほどで、本町通に突き当たる。左がENEOSで、古地図で見ると六之助さんが住んでいたところ。右が都民銀行のあるビルで、そこが旧中居屋である。写真は、都民銀行の前、桜通の歩道にある中居屋があったことを示す掲示板である。
 
参考文献、
 1)萩原進著:炎の生糸商 中居屋重兵衛、有隣新書、1978
 2)勝浦吉雄著:生糸商原善三郎と富太郎(三渓)文化書房博文社、1996
 3)新井恵美子著:原三渓物語、神奈川新聞社、2003

河口湖2006年07月14日 23時36分35秒


ついでなので僕の河口湖テニス合宿の写真など。

エナンは残念だったけどフェデラーは予定通り。

課題を再確認して来年に向けて頑張らねば・・・という合宿でした。

一年に一回だけのクレーでのプレイ

ちなみにこのコートにある水道(?)は富士山の湧水が出ておりこれをボトルに入れれば立派にお金を取れるものです。真夏の30数度の時でも冷たくて美味しいのです。

コーヒー用にしっかり持ち帰りました。

ハイランド モルト2006年07月14日 23時51分36秒


ジョック・スコットという名のハイランドモルト

この名前はサーモン(鮭)用のフライ(毛針)では超有名

なかなかおいしか。。

何だっけ?2006年07月14日 23時55分18秒


またまた魚の名前が出てこない・・・本当にやばい

ゼロ金利から脱出したのに。。
記憶力はゼロのまま

でもこの写真は「美味しさが伝わってきそう」