第20弾 原善三郎 その2 神奈川運上所2006年07月23日 17時48分44秒


のむけはえぐすり 第20弾 原善三郎 
  その2  神奈川運上所
 
 開港当時、幕府は横浜への出店を奨励した。三井組の三越得右衛門さんは、幕府に言われて、渋々応じている。地方の山っ気のある連中は、続々と横浜にやってくる。その当時、輸出は「売り込み」、輸入は「引き取り」と言い、それぞれの取り扱い商人を「売込商」、「引取商」と呼んだ。

 善三郎はそれまでのキャリアを生かして、まず生糸を売る荷主になった。荷主は好不況の波をもろに受け、利幅も少ない。そこで、売込商になった。売込商は、自分で産地まで買い付けに行って外国商人に売るよりも、産地の荷主と外国商人との売買を仲介して手数料を稼ぐ方が、儲けも大きいし、リスクも少ない。それでも、潰れた売込商は多い。その中で、不況の波を何度も乗り切って、大きく成長したのが、亀屋の善三郎や、野沢屋の茂木惣兵衛さん達の巨大売込商である。

 当時、外国との「売り込み」、「引き取り」を取り仕切った幕府の役所が、運上所である。
 常盤町3丁目からベイスターズ球場のナイターの明かりが見える。球場がある横浜公園から、海に向かう銀杏並木の広い道が日本大通り。そこを200mほど海側に行くと、神奈川県庁に突き当たる。そこに旧神奈川運上所があった。写真は運上所があったことを示す史跡で、県庁の中にある。運上所が火事で焼けた後、海側に移転し、明治5年から横浜税関に改称した。

 運上所があった場所は、大岡川と中村川の河口にできた沼地を囲む砂州で、水神の森と呼ばれていた。その桜木町側の砂地を日本人居留区とし、反対に中華街辺りの畑地を外人居留区に指定した。日本大通を境に、住分けたかたちになった。

 もともと住んでいた村人はどうなったかというと、今の元町に移住させられた。そこに堀川が作られ、境界ができた。堀川に架けられた橋が前田橋。馬車道の突き当たりの大岡川に架けられた橋が吉田橋。他にもいくつかの橋があり、それぞれに関門が設けられ、攘夷を語る不逞な輩の出入りを取り締まった。関門の内側を関内、外側を関外と呼ぶようになったのが、関内の地名の由来である。

 間にあった沼地はどうしたかというと、埋め立てられ、吉田新田辺りの沼地は港崎遊郭になった。地図で見ると、横浜公園と高速道路の間、今のベイスターズ球場の辺りになる。
 この遊郭は新たに埋め立て地が作られるたびに、そこへ移転させられ、最後は永楽、真金町に落ち着く。真金町の遊郭、富士楼の一人息子が、笑点の桂歌丸師匠。横浜橋の三吉演芸場で聞く歌丸師匠の落語は、お師匠さんの古今亭今輔師匠にそっくり。悲しい女とやり手ババアの話の上手さは、生まれつきだった。

高プロと一緒シリーズ2006年07月23日 17時54分24秒


男性版第二弾です。

いさき2006年07月23日 17時56分17秒


美味しいものシリーズ;いさき です。
温かいのを食べるとほんと美味しい。

「パンドラの箱」第二弾 ガーファンクル2006年07月23日 17時59分22秒


最近おめでたいことがあったらしいガーファンクルです。

ヒャンフィと一緒シリーズ 第2弾2006年07月23日 18時00分58秒


今回も表1は綺麗に締めくくりましょう。

タイガー相変わらず強いですね。