のむけはえぐすり 第35弾 原善三郎の話 その16 安田銀行(旧富士銀行)(改訂版)2006年11月16日 20時44分25秒


(改訂版)
のむけはえぐすり 第35弾
原善三郎の話 その16 安田銀行(旧富士銀行)

慶応元年(1965)、26才の安田善次郎さんが東京日本橋で、鰹節や玉子を商いながら両替もする露天商を開いた。2年後には安田商店と改称する。善三郎38才、亀屋を開業した頃の話。

その頃の明治政府はお金がない。今の国債にあたる会計基本金(かいけいもとだてきん)300万両を募集し、太政官札、さらに民部省札を発行する。世間から信用されない紙幣ではあったが、安田商店は積極的に引き受け、お上に気に入られる。明治3年(1870)、正金金札等価通用布告がなされ、額面引き換えによって、しこたま儲ける。

洋銀を標的に兌換制度を導入しようと国立銀行条例が作られ、その翌年の明治6年(1873)には、小野組と三井組が中核となって国立第一銀行が、善三郎ら横浜商人が集まって国立第二銀行が作られる。この時の国立第三銀行は鴻池組が企画したが、設立には至らなかった。

国立銀行とは言っても、大蔵省の管理のもとで、兌換券の国立銀行券を発券する民間会社にすぎない。それなのに資本金の4割もの正貨を準備しろと要求される。貸付を増やして兌換紙幣を流通させようという考えだったが、設立条件が厳しすぎる。とてもやれないというので、他に第四、第五銀行と併せて4行しかできなかった。銀行券の発行も、全貨幣流通量の1%程度に止まる。

お上も背に腹は代えられないので、発券条件と正貨準備高を緩和するように、明治9年(1876)、国立銀行条例を改正する。おかげで、国立銀行の設立が相次ぎ、3年後には153行にもなる。これらの銀行は設立順に通し番号が付けられ、ナンバー銀行と呼ばれる。ブームに乗って、安田善次郎さんも早速、川崎八右衛門さんらと第三銀行を設立する。欠番の三番をもらえるのだから、補欠の第一位だったのだろう。本店は東京だが、明治10年(1877)に横浜支店が弁天通に作られる。

その後、私立銀行も結構儲かるというので、安田善次郎さんは明治13年(1880)、自分の両替商安田商店を安田銀行に変える。安田銀行は鉄道や港湾事業などの大規模事業に協力して、政府や地方の自治体に食い込んで成長する。「公金の富士」と言われる元の元がこの辺りにある。

一時、安田銀行は保善銀行という名前になるが、大正12年、第三銀行、第二十二銀行、第百三十銀行など11行が大合併して、再び安田銀行となる。

写真は、馬車道と本町4丁目交差点の角にある、昭和4年に建てられた粗い石積みの旧安田銀行である。当時は旧国立第一銀行のはす向かいにあった。戦後の財閥解体によって、昭和23年(1948)、富士銀行と名前を変える。この建物は富士銀行として平成12年まで使われたが、その後、富士銀行がみずほ銀行となる直前の平成14年に横浜市によって買い取られ、しばらくNPOのオフィスがあった。
 
 現在の馬車道側の玄関には、「東京藝術大学」と書かれている。私はてっきり、美術学科か、岡倉天心ゆかりの記念館か何かかと思った。実は、平成17年からは、クリエイティブシティーとか言う横浜市の事業で、東京芸術大学大学院映像研究科が入っている。その目玉となる4人の専攻専任大学院教授の一人が、北野武さん。タケちゃんは、監督領域・映画専攻を担当している。

善次郎さんが生きていれば、芸大も借りるなんてケチなことを言わないで、もらえたかもネ。東大だって、(安田)講堂一つもらったンだから。