第144弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 石塔寺 ― 2010年01月22日 19時18分59秒
第144弾 のむけはえぐすり
近江の帰化人 石塔寺
百済の帰化人、佐平余自信と佐平鬼室集斯(きしつしゅうし)ら男女700余人が移住したという蒲生郡は、現代の近江八幡から日野にかけて、蒲生野を中心とした日野川流域の広い範囲である。
日野川の支流の佐久良川を下り、地図の赤丸印の鬼室神社から直線距離で8Kmほど離れた所に、黄色の丸印の石塔寺(いしとうじ)がある。
石塔寺の下馬と書かれた大きな石碑の前で、タクシーを降りる。真新しい「阿育(あしょか)王山 石塔寺」の石碑を過ぎると、右手に山門があり、正面に一直線に見上げる158段の石段がある。石段の両側には、高さが30cmほどの石塔や双体神の石仏が置かれている。階段を登ると、壮絶な光景に息を呑む。写真のように無数の石塔と石仏が並び、中央に高さ7.5mの巨大な三重塔が立っている。
三重塔の一段目には花崗岩でできた長方体の巨岩が二つ並べられ、全体を力強く支えている。2段目と3段目には立方体の岩が乗せられ、間に分厚い一枚岩でできた屋根が3枚水平に突きだしている。後世につけられたという相輪は天に向かい、三重塔の偉容を増している。
今まで見た慶州の仏国寺の三重塔、密陽の表忠寺の三重塔、忠州の7層の中央塔、光州の雲住寺の七重塔と比べても、よく似ているが、この塔の見る人を圧倒する力強さにはどれも及ばない。
寺で買った絵はがきの「石塔寺略縁起」によると、石塔寺は聖徳太子が近江に48ヶ所お寺を建てた中で、48番目の結願のお寺だという。平安時代には一条天皇が七堂伽藍を建て、遠くからもたくさんの参拝者が訪れた。小さな五輪塔や石仏は鎌倉時代からのもので、先祖供養や善根功徳を積むために奉納され、今のように3万を越える数になった。木造の伽藍は織田信長の焼き討ちによって焼失した。
この三重塔は百済後期に作られた扶余にある定林寺の五重塔を原型にして、奈良時代前期に作られ、百済の帰化人と関連があるとされている。
奈良時代前期にこの辺りに住んでいた百済系の帰化人には、主なところでは5世紀末から6世紀初頭に帰化してきた大友日佐(おさ)氏とか鏡日佐氏が挙げられる。その他に、御船(みふね)氏や民使(みたみのつかい)氏もいた。勢力を誇った安吉勝(あきのすぐり)は、秦氏系なので除外しておく。地理的にも近く、669年に鬼室集斯や余自信らと共に移住してきた百済人の子孫の可能性もある。だが、このような大掛かりなものを一氏族だけで作るのは大変だとすれば、周辺に住む帰化人のいくつかの氏族が協力した可能性も考えられる。それほど、蒲生野には帰化人が多かったのだ。
その頃、蒲生野には朝廷が薬猟(くすりがり)をするための禁足地、標野(しめの)があった。薬猟では、女性は貴重な薬草である紫草を採り、男性は角を取るために鹿狩りをするという。
天智天皇は667年に大津に都を移し、668年5月に蒲生野で薬猟を催した。その時に歌われた万葉集の有名な相聞歌がある。
大海人皇子(おおあまのおうじ)は天智天皇の弟で、次の天皇となる皇太弟であった。大海人皇子が初めて結婚した相手は才色兼備の宮廷歌人、額田王(ぬかだのおうきみ)で、二人は長女の十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけている。当時は、皇族間の近親婚が盛んに行われ、政略結婚に使われた時代であった。天智天皇の4人の娘のうち、太田皇女と鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ・のちの持統天皇)は大海人皇子の妃になり、代わりにということなのだろうか、額田王が天智天皇の後宮に入っている
薬猟のあとの宴の席で、天智天皇は大海人皇子と額田王に歌を作るように指名した。昼の薬猟で二人が偶然に出会った時のことを思い浮かべ、まず額田王が歌う。
「茜(あかね)さす 紫野ゆき標野ゆき 野守がみずや 君が袖振る」
紫草の生えている御料地の野をあちらに行き、こちらに行き、野を見張る番人が見はしないでしょうか、そんなに袖をお振りになって、という意味だ。
大海人皇子が返歌する。
「紫の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋いめやも」
紫草のように美しいあなたが憎いと思うのなら、あなたが人妻なのに、どうして恋などするものですか。
天智天皇の前でおおらかに歌う二人の相聞歌を、元夫婦の戯れの歌と聞く人もいたし、二人は今も愛し合っていると思った人もいた。
天智天皇は晩年、長男の大友皇子への皇位継承を望むようになった。身の危険を感じた大海人皇子は吉野に逃れた。672年に天智天皇が亡くなると、大友皇子と大海人皇子との間で、全氏族を巻きこむ壬申の乱が起きた。大友皇子の正妃となっていた十市皇女は、父の大海人皇子の側についた。十市皇女の機転で窮地を脱した大海人皇子は、近江軍に勝利した。乱のあと、近江の豪族の多くが、失脚したという。
だが、蒲生野にいた百済系の氏族は生き延びた。それは、平安時代の初期、815年に編纂された新撰姓氏録の諸番の覧に、左平余自信の子孫は高野造姓を賜り、鬼室集斯の子孫は廃帝(淳仁天皇)天平宝字3年(759)に百済公姓を賜ったと記されていることで分かる。
石塔寺の三重塔が作られたのは、壬申の乱の後、半世紀も経った頃だ。その半世紀の間に、壬申の乱の直前に蒲生野に移住した700余人の百済人の子孫は栄え、石塔寺の三重塔を作った可能性はあると思う。
参考文献
1)大橋伸弥、小笠原好彦:新・史跡でつづる古代の近江、ミネルヴァ書房、2005
2)朴鐘鳴:滋賀のなかの朝鮮 歩いて知る朝鮮と日本の歴史、明石書店、2003
3)遠山美都男:壬申の乱、中央公論社、1996


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