第148弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 上蚊野古墳群2010年03月24日 01時24分58秒





第148弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 上蚊野古墳群

 

 近江の愛知(えち)郡に居住していた新羅からの帰化人、愛知秦氏の愛知は、依知、依智、朴市、依市とも表記される。

 

 地図の黄緑の丸印に、上蚊野(かみかの)古墳群があり、その案内板の表記は依智秦氏になっている。

 

 場所は金剛輪寺から直線で1Kmほど、宇曽川沿いにある。国道307号線のコクヨ工場の辺りだが、工場の反対側の農地の中に、かつて上蚊野古墳群と呼ばれる102基の古墳があった。工場のある場所には、蚊野外(かのとの)古墳群の196基の古墳があった。総称して金剛寺野古墳群と呼ばれ、工場の敷地の片隅にある金剛寺野と記された石碑にその名残をとどめている。

 

 戦後の開墾でほとんどの古墳が消滅し、10基の古墳が残る上蚊野古墳群の跡が、「依智秦氏の里古墳公園」となっている。国道から盛土が並んでいる場所を目当てに、農道を右往左往しながらたどり着く。墳丘の上では、枯れ草と緑の雑草の間で、桜の落ち葉が北風の中をしがみついている。空はどんよりした雲におおわれ、遠くの鈴鹿の山並みは青く、伊吹に近いほど雪が残っている。

 

 10基の古墳はいずれも直径が10m前後で、高さは大人の背丈ほどである。周溝を持つものもあったというが、よく分からない。円墳の頂上は心持ち平坦に見える。古墳に植えられた桜の根本には、メロン大ほどの川原石と、こぶし大ほどの石がゴロゴロしている。古墳を覆っていた葺き石のようだ。

 

 こうもり塚(3号墳)、百塚(1号墳)、たぬき塚(7号墳)など、名前がついた古墳がある。多分、盗掘されて入り口が露出していたのだろう。百塚の中腹に、ネットで覆われた入り口が見える。のぞいてみると真っ暗で、中の様子は分からない。隣のこうもり塚と同じように、入り口から2mほどの羨道があり、その奥に玄室が水平に続く構造で、横穴式石室だという。

 

 公園内の小径を50mほど進んだ右手に、写真のように大人の背丈よりも低い5基の古墳がある。中央にあるたぬき塚の上には登ることができ、そこは明かり取りの厚いガラス屋根になっている。入り口へ回ると、羨道が露出し、石が積まれたその先に、35cmほど一段下がった所に玄室がある。竪穴系横口式石室と呼ばれる構造だ。玄室の中には、石が何かを支えるように並んでいる。木棺を置いた棺台の跡だという。奥壁にも側壁にも、大きな石が積まれている。

 

 過去にこの公園の10基の古墳のうち8基が調査され、横穴式石室が4基、竪穴系横口式石室が4基あり、未調査の2基の構造は不明ということだ。その時に発見された耳環や鉄製刀子や須恵器は、近くの歴史文化博物館に展示されているという。

 

 横穴式古墳は、家族墓として横穴から何度も追葬を可能にしている。古墳時代後期に北九州から始まり、全国に広がった古墳で、群集墳の発生と共に、渡来人の影響が考えられている。一方、竪穴系横口式石室の方は珍しいというのだ。近江では五個荘町の竜石山古墳群や、蒲生町の天狗前古墳群や竜王町の三ッ山古墳群などで見つかっているが、依智秦氏の一部がその辺りにも住んでいた名残だという人もいる。

 

朝鮮半島では、達城郡の達西面古墳群などでみられるという。大邱市に近い達城郡は大伽耶があった高霊郡の東にあって、新羅の都、慶州に近い。と書くと、依知秦氏は伽耶の出身かと思いたくなるが、秦氏の源流である京都太秦付近に竪穴系横口式古墳はないので、即断はできない。

 

 誰が埋葬されていたのか、記録はないが、依智秦氏には日本書紀に登場する人物がいる。上蚊野古墳群が造られた6世紀中葉よりは新しく、7世紀中葉に活躍した人である。日本書紀の表記では朴市が使われ、朴市秦造田来津(たぐつ)という。

 

 645年の大化の改新のあと、皇極天皇は息子の中大兄皇子に位を譲ろうとする。中大兄皇子は辞退し、皇極天皇の弟の軽皇子を指名する。軽皇子も辞退し、舒明天皇の長男の古人大兄皇子を推薦する。古人大兄皇子は辞退しただけではなく、髪まで下ろして吉野に退く。最終的には、軽皇子が即位して孝徳天皇となった。

 

 その3ヶ月後、吉野に隠棲したはずの古人大兄皇子が謀反を企てたと、首謀者のひとり、吉備笠臣垂(したる)が自首してきた。謀反に加わったとされる5人の豪族の中に、朴市秦田来津の名前がある。結局、中大兄皇子の命令で古人大兄皇子の一族は殺されてしまうのだが、連座したとされる5人が処罰されたという話は聞かない。謀反そのものがでっち上げとされる理由だ。

 

 その後、660年に百済が滅び、百済復興軍の鬼室福信は、長く日本にいた百済の王子の豊璋を百済王として迎えたいと言ってきた。天智天皇は大山下の狭井連檳榔(さいのむらじあじまさ)と小山下の秦造田来津に5000の兵をつけて、豊璋を百済へ送り届けさせた。小山下という位は孝徳天皇の時の冠制で、第13位の中央官僚である。

 

 ところが、豊璋は謀反の疑いをかけて鬼室福信を殺してしまう。その上、今いる州柔(つぬ)の城は食べ物が少ないから、平地にある避城(へさし)に移ろうと言い出す。ひとり秦田来津だけが「州柔は敵が一夜で攻めて来られる道のりだから危険だ」と諫めたにもかかわらず、豊璋は城を移してしまう。案の定、避城は危うくなって、もとの州柔の城に戻った。

 

 白村江での敗戦の最中、秦田来津は「天を仰いで決死を誓い、歯を食いしばって怒り、敵数十人を殺したが戦死した」と記されている。

 

 秦田来津が戦死したのは、663年。遺体もなかっただろうし、年代も降るから、上蚊野古墳群に秦田来津の墓はなかったと思われる。

 

参考文献

1)大橋信弥、小笠原好彦編集:新・史跡でつづる古代の近江、前出

2)宇治谷孟:全現代語訳 日本書紀、講談社学術文庫、2009

 


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