第140弾 のむけはえぐすり:古代の帰化人のふるさと 大伽耶の終焉2009年12月23日 20時59分53秒



第140弾  のむけはえぐすり

古代の帰化人のふるさと 大伽耶の終焉

 

写真は陜川博物館の裏山にある多羅伽耶の玉田古墳群である。周りの景色から分かるように、多羅伽耶は山間の小さな国であった。

 

このような小国の集まりであった伽耶は、532年に金官伽耶が降伏した前後から、562年に大伽耶が滅亡するまで、約30年の間に立て続けに消滅した。

 

金官伽耶が新羅に降ったのは、金官伽耶第10代の王、仇衡(きゅうこう)王の532年である。金官伽耶には新羅による524年の第一次侵攻に続いて、529年の第二次侵攻があり、金官伽耶の主要な村が占領され、命運はほぼ尽きていた。

 

この時、百済は今の北朝鮮のあたりで高句麗に大敗を喫し、538年には熊津から泗泌(しび・泗沘とも)に遷都しなければならかったほどだった。とても、金官伽耶を救援する余裕はなかったのだ。金官伽耶と関係が深かった倭は近江毛野臣を派遣してきたが、近江毛野臣は安羅伽耶にいて、なすすべもなかった。

 

兵力もなく傲慢な近江毛野臣の失態を口実に、百済は531年に安羅伽耶に進駐してきた。だが、百済兵が守備していた安羅伽耶の久礼(くれ)の城が、新羅によって陥落してしまう。ここにいたって、金官伽耶は新羅に降伏する。その際、三国史記の新羅本紀には、仇衡王が息子3人とともに、国庫の宝物を携えて降伏してきたと記されている。

 

新羅は降伏してきた金官伽耶の王族を厚遇した。

仇衡王の弟には旧領の管理を任せ、統治の継続を認めた。新羅に移り住んだ仇衡王とその息子たちには、新羅の官位の最高位である角干の位を与えた。三男の金武力は新羅の王族と婚姻関係を結び、新羅の将軍として活躍した。金武力の子が金舒玄(ソヒョン)で、陜川を治める将軍になった。金舒玄の子が金庾信である。

 

金官伽耶が降伏した後、541年に百済の聖明王は都の泗泌に伽耶諸国の王たちを招集し、第一次泗泌会議を開いた。その場で聖明王は、先に消滅した伽耶の三つの国について言及している。金官伽耶と安羅伽耶の間に位置した㖨己呑(とくことん)はたび重なる新羅の侵攻に遭い、救援することができずに滅んでしまったという。金官伽耶は領土が狭いので攻められると、ひとたまりもなく占領されてしまったという。卓淳(とくじゅん)は王族が新羅の傘下になることを求めたために、臣下と意見が対立して、滅びるべくして滅びたといっている。

 

だから新羅の力はたいしたことはないというのだ。聖明王は伽耶諸国の結束を説き、必ず百済が援軍を派遣することを約束して、会議が終わった。伽耶諸国は贈り物をいただき、満足して国に帰ったという。

 

ところが、間もなく安羅伽耶が新羅に内通していることが発覚した。それを画策したのが、安羅日本府の河内直(あたい)だったというから、倭にとっては二重の驚きだった。河内直という名前からは日本人のようだが、実は倭の女性を母に持つ百済系の伽耶人であって、百済にも倭国にも密接な関係を持つ存在だった。

 

戦前教育の中で日本府は、恒常的に伽耶諸国全体を支配するような倭国の出先機関として語られ、戦前日本が朝鮮半島を植民地化する宣伝に利用された経緯がある。日本書紀を素直に読む限り、私の印象では、現代のロビィストのような姿が浮かんでくる。

 

日本書紀を読み解いた森公章の知見では、日本府とは6世紀頃の安羅伽耶に存在した在安羅諸倭臣のことで、許勢臣(こせのおみ)や的(いくは)臣といった倭の中央豪族がトップに座り、吉備臣のような地方豪族が中間管理職となって、先ほどの河内臣などのような伽耶系の人々が実務についていた組織ということのようだ。倭国の指示を受けるといった直接的なつながりはなかったが、安羅伽耶の政権に対する一定の影響力はあったというのだ。

 

安羅伽耶の親新羅派が出席を渋る中、第二回泗泌会議が544年に招集された。会議は親新羅の機運を一掃し、百済の軍事的進出を再確認して終わった。

 

ところがその後、百済にとっては軍事的な問題が続発する。544年に王位継承をめぐる内紛で、2000人もの死者を出した高句麗国内の混乱がようやく収まり、高句麗が再び百済への侵攻を開始した。その間隙を突いて、新羅は高句麗と百済の間に割って入るような形で領土を広げた。そして、伽耶にとって致命的だったのは、百済の聖明王が敗死したことである。

 

聖明王の在位は523年から554年で、聖明王は倭国に仏教を伝えたことで有名な王である。日本書紀には、聖明王の最期が詳しく記されている。

 

554年、聖明王の王子の余昌は功を焦り、新羅領内に突出して孤立してしまった。王子を救うために聖明王自らが、今の太田付近の沃川(ヨクチョン)まで出陣した。これが新羅の知るところとなり、聖明王は包囲され、殺害された。百済は3万の兵を失い、大打撃を受けた。この時に百済と一緒に、安羅伽耶と大伽耶は壊滅的な損害を被った。一方、新羅を勝利に導いたのが、新羅の将軍となっていた元金官伽耶の金武力であった。

 

王子の余昌は、強弓で速射が得意な筑紫の国造の活躍で、脱出することができたという。このことから、筑紫の兵が朝鮮半島への援軍にかり出されていたことが分かる。ということは、倭が近江毛野臣と共に援軍を派遣しようとした時に起きた磐井の乱は、日本書紀のいうような新羅との内通によって起きたのではなく、援軍派遣のために課される賦役に反発して起きたことがうかがえる。

 

聖明王の死後、伽耶諸国は存亡の危機に立たされた。

561年には安羅伽耶が新羅の統治下に入った。56112月には、新羅の眞興王が臣下たちを昌寧に集め会盟する。泗泌会議を開いた聖明王と同じことをしたわけだ。

5629月、大伽耶の道設智王は新羅の眞興王の攻撃を支えきれずに、大伽耶は滅亡する。この時、百済は援軍を派遣したが、一千人の死者を出して撤退した。倭も百済経由で援軍を差し向けたと、日本書紀には書かれている。

 

参考文献

1)森公章:東アジアの動乱と倭国、吉川弘文館、2008

2)井上秀雄:古代朝鮮、講談社学術文庫、2009

3)歴史研究会編:日本史史料(1)古代、岩波書店、2005



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