第141弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人のふるさと 大伽耶の古墳2009年12月27日 04時35分32秒



第141弾  のむけはえぐすり

古代の帰化人のふるさと 大伽耶の古墳

 

大伽耶博物館の裏山が、主山である。わずかな蝉の声を聞きながら森の中を登っていくと、夏の日差しが照りつける小径に出る。

 

芝に覆われた古墳が山の稜線に沿って並び、頂上へと向かう小径が見え隠れする。主山の右手にある丘は、かつて王宮があった場所だ。

 

 写真のように、小径のすぐ側に直径15mほどの古墳がある。標識には、史跡第79号、池山洞古墳群 第32号墳とある。池山洞古墳群には大型古墳が5基と大小の古墳が200基余りあるというから、周囲を見渡してみると、小さい方なのだろう。

 

それでも、この第32号墳からは金銅の冠が出土している。博物館に展示されているそのレプリカを見ると、金色に輝く帯状の冠の輪の上に金銅板が立てられ、その左右に宝珠型の枝がついている。金銅板の上には大きな花の蕾の飾りがあり、草花模様を装飾している大伽耶の代表的な冠である。

 

このような小さな古墳からでも立派な金銅製の冠が出土するからには、この一帯が大伽耶王家の墓だったことが分かる。古墳群が造られた年代は5世紀から6世紀と推定され、大伽耶が最も栄えた時から滅びる直前までの王が眠っていることになる。

 

この古墳は韓国のどこにでも見られる円墳である。一見、日本の円墳と同じように見えるが、この円墳の頂上は丸く、土饅頭のような格好をしている。その点、日本の円墳の頂上は基本的に平坦になっているので、そこが違うのだという。

 

私は韓国では円墳以外は見たことがないが、日本では円墳の他に、前方後円墳、前方後方墳、方墳、八角墳など、さまざまな形の古墳がある。とりわけ、日本では前方後円墳が重要視されている。多くの天皇陵が前方後円墳である上に、大きい方からベスト45位くらいまでが前方後円墳である。古墳前期から後期までの全ての時期を通して造られ、岩手から鹿児島までのほぼ全国に分布している。日本の円墳の頂上が平坦なのも、前方後円墳が出現したあと、後方墳が省略された形として造られたからだといわれている。

 

ところが、従来日本列島のみに存在すると考えられていた前方後円墳が、1980年以降、韓国南西部に13基発見されている。ただ、地域的には、全羅南道の光州、羅州、威平(ハンピョン)から木甫(モッポ)辺りの栄山川流域に限定され、時代的にも5世紀後半から6世紀前半の百済の熊津時代に集中している。被葬者には、日本との関係をアピールするために作ったという在地首長説や、副葬品などの比較から北九州や有明海沿岸出身の倭人説がある。倭人説の中では北九州から亡命してきた倭人説、百済王家に臣従した倭人説などがある。

 

これらの諸説はどれもが、ありうることのように思える。というのは、在地首長説にしても、この旧馬韓地域は濊族の百済が支配する以前には韓族系がいて、もともと北九州とは密接な関係があったことが分かっているからだ。倭人説にしても、日本書紀には、「42郡割譲」の際にこの地域に穂積(ほずみ)臣押山という倭系の百済官僚がいたと記されているし、雄略天皇の479年に百済の文斤王が亡くなった時に、日本にいた王子を筑紫の兵500人に護らせて送り届け、その王子は後に東城王となって即位したという記事や、筑紫の安致臣や馬飼臣が高句麗を攻めたという記事があるからだ。歴史の話は、一つのことでも見る人によって、さまざまな解釈が成り立つからおもしろい。

 

話はもう一度、第32号墳に戻る。

 

写真の左下に、三つほどゴツゴツした石が見える。この際、私もさまざまな説を考えてみた。ひとつ目は、日本ではほとんどの古墳の表面を覆っている葺石(ふきいし)が、ないはずの韓国にもあったという葺石説だ。だが、日本でも葺石というとだいたいが丸石だし、大伽耶博物館の古墳の造成過程を再現したジオラマにも最終段階に葺石がないので、葺石説はあえなく不採用。

 

二つ目は、墓の中央にある主石室を囲んでいた石がたまたま露出したという主石室露出説だ。だが、日本の場合は墳丘を造り、頂上部から土壙(どこう)を掘って墳丘の内部に埋葬する竪穴式が普通だが、博物館内のジオラマをみると、平地を掘り下げて石室を造り、その上に盛り土をして墳丘を造っている。墳丘の最深部にある主石室が露出することは考えられないので、この説も破棄。

 

三つ目は、古墳の周囲に配置された殉葬者の石槨の石が露出したという殉葬石槨説である。大伽耶では殉葬が行われていた。殉葬された人々は、王の死後もお仕えするように、生きたまま埋葬された。例えば、近くにある直径27m、高さ6mの第44号墳では、主石室の周りに副葬石室2基の大型石室があり、周りに小形の石槨32基が配置され、周囲を楕円形の護石が取り囲んでいたことが、1977年の慶北大学による発掘調査で分かっている。副葬石室にはそれぞれ一人以上、小形の石槨には一人ずつ、合わせて36人以上が殉葬されていた。したがって、古墳の構造から楕円形の護石の内側にある石槨の石が突然見えるはずがなく、この説も却下。

 

四つ目は、これは石ではなく埴輪のかけらだという埴輪断片説だ。日本の人や馬の形の埴輪は、垂仁天皇の32年、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった時に、殉葬を廃止するために、野見宿禰(すくね)が出雲から土部(はじべ)を呼んで作ったことが始まりだといわれている。実際は、646年の孝徳天皇の葬儀の際に殉葬を禁じる薄葬令が出されているので、かなり遅い時期まで殉葬の習慣が残ってはいたようだ。ところが、大伽耶博物館の中に埴輪はなかった。殉葬が続いていた大伽耶には人や馬の埴輪は必要なかったとも考えられるが、どうみてもこれは石だというので、この説は無視。

 

となると、五つ目は、今歩いて来た小径はこれと同じような石で舗装されているので、最近工事した人が余った石を無造作に置いていったという工人遺棄説だ。私はこれが最も有力な説だと考えている。

 

参考文献

1)白石太一郎:古墳の知識Ⅰ 墳丘と内部構造、東京美術、1985

2)村井嵓雄ほか:古墳の知識Ⅱ 出土品、東京美術、1985

3)朴天秀:伽耶と倭 韓半島と日本列島の考古学、講談社選書メチエ、2007

4)大伽耶博物館:大伽耶の歴史と文化、2004

 



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