第2回韓国旅行 光州 その7 百済の古墳2006年07月07日 22時30分52秒


のむけはえぐすり  第18弾 
第2回韓国旅行  光州  その7 百済の古墳

 扶余市から3Kmほどのところに、陵山里古墳群(ヌンサンリ)がある。ここには百済が泗沘(シビ)、今の扶余に都があった538年から660年までの王陵がある。  

 入り口に、方形に3段に石が積まれた古墳の模型がある。模型の古墳は、平たい石が積まれ、中に玄室と呼ばれる棺を置く部屋があり、そこに続く横穴がある。横穴式古墳である。

 次の古墳は、横穴を入ると壁画が描かれている。玄室の天井には、雲がたなびいた中に蓮の花のようなオブジェが描かれている。写真のような、日本にはない模様である。
 
 同じ頃の日本の飛鳥には、蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳がある。蘇我氏滅亡のため、周溝と巨石の石積みが途中まで作られ、土盛りがされずに残されている。おかげで、巨石で作られた玄室が、むき出しのまま見ることができる。狐が夜毎その石を舞台にして踊りを踊ったと言い伝えられている。十匹ぐらいの狐なら、飛んだり跳ねたりできそうな広さがある。
 
 蘇我氏の立場は微妙で、後世から見ると悩ましい。もともと蘇我氏は、百済八大姓の木(モク)氏が出自だとされている(門脇禎二:蘇我氏の出自について)。和歌森太郎氏も蘇我氏は百済の棟梁で、次々と渡ってくる百済系の氏族を従えて大きくなったと述べている。

 ところが蘇我氏は、新羅系そのもののように言われる。天智天皇は百済系で、大化改新を起こし、蘇我氏を滅亡に追いやった。そして百済救済の軍を派遣した。その揺り返しの百済系の反撃が、弟の天武天皇による壬申の乱だったと言う説もある。渡来人が日本に来て生き抜くためには、権力の中で揺れ動いたと言うことだろうか。
 
 そんなことを考えながら、山裾の王陵に向かう。数基並んだ円墳は、慶州の古墳に比べると、心なしかわびしい。この古墳が作られた頃には、伽倻(カヤ)地方の王達は百済を離れ、新羅につくか、日本に渡っている。金海金の金官伽倻国は、すでに532年新羅に降った。その最後の王、仇衛王(クヒョン)のひ孫の金庾信(キムユシン)は新羅の将軍となって、唐と連合して攻めてくる。巡りめぐって、最後にたどり着いたのが泗沘である。
 
 百済が滅亡して3年後の663年、日本は百済復興のための軍を派遣し、白村江で破れた。そこに何があるわけでもない。それでも行こうと思ったのは、血のつながりがあるからだ。
 
 光州の旅、終わる。

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