のむけはえぐすり 第91弾 原善三郎の話 その69 ジャーディン・マセソン商会 HSBC取締役2008年06月04日 21時17分20秒

1986年に完成した香港HSBC

のむけはえぐすり  第91弾

原善三郎の話 その69  ジャーディン・マセソン商会 HSBC取締役

 

1877年1月、ジャーディン・マセソン商会の責任パートナーであるW. Keswickさんが、香港上海銀行(HSBC)の取締役になった。  そうなるのには、それぞれの事情があった。    

ジャーディン・マセソン商会の事情。   

アヘン戦争の前後、ジャーディン・マセソン商会はインドからの輸入超過とイギリスへの輸出超過に対する決裁を手形で行っていた。手形には、ジャーディン・マセソン商会からの手形の他に、アメリカやイギリスの商社、あるいは東インド会社が振り出した手形も用いられ、ロンドンのベアリング商会のようなマーチャント・バンカーで現金化され、支払いに充てられた。    

1854年にボンベイのオリエンタル銀行が香港に支店を出し、アグラ銀行、マーカンタイル銀行などの支店の開設も相次いだ。ジャーディン・マセソン商会では、ロンドン宛の手形をインドで割り引く業務を、オリエンタル銀行に委託するようになった。

 

1864年にP&O汽船のトーマス・サザランドさんが、香港にいる外国商人たちの手による銀行の設立を呼びかけた。これに応じたデント商会をはじめ、欧米の商人たちによって、1865年にHSBCが設立された。

 

このHSBCの創業に、ジャーディン・マセソン商会は参加していない。理由は不明だが、こういう時の理由として考えられるのは、自分が中心でやりたくてスネた、自分がすでにしているので必要がなかった、嫌なヤツがいたから加わらなかったなどである。

 

自分が中心でやりたかったという点では、実はこの頃、ジャーディン・マセソン商会は買弁を対象にした銀行のような怡和銭荘を作り、荘票という手形を発行していた。これを銀行に発展させたかったのかもしれないが、この銭荘は1866年の恐慌で破産してしまった。

 

自分がすでにしていて必要がなかったという点では、為替業務は貿易業務と平行して行っていたし、それが結構儲けになっていたし、ロンドンにはマーチャント・バンカーとしてのマセソン商会があって、とりあえず間に合っていた。    

嫌なヤツがいたという点では、もともと虫が好かないデント商会と、新たなライバルのサスーン商会が先に名を連ね、大きな顔をされるのが嫌だった。

 

だが、ジャーディン・マセソン商会にも転機が訪れる。  

1873年頃から世界的に金本位制への移行が始まり、銀価格が低落した。そのため、ドル建ての手形が減り、ポンド利子付き手形が普及するようになった。だが、それはアジアの輸出業者が為替リスクを負うことになり、ジャーディン・マセソン商会にとっては不利だった。そのためロンドンのマセソン商会は、ジャーディン・マセソン商会にHSBCとの連携を薦めてきた。マセソン商会自身も、バンカーとしての道を歩み始めていた。    

1870年代になるとアヘンの取引額は減少し、オリエンタル銀行やアグラ銀行など、アングロ・インド系の銀行が衰退していった。1872年に横浜支店はオリエンタル銀行に預けていた3万ドルの預金をHSBCに移し、1873年には上海支店もHSBCに移した。ジャーディン・マセソン商会はHSBCにとって大口の預金者となり、持ち株を増やしていった。

 

1877年1月、W.Keswickさんは、HSBCに請われる形で、取締役に就任した。経営の多角化を目指すジャーディン・マセソン商会にとって、HSBCとの提携話は資金源として魅力だった。

 

HSBCの事情。  

HSBCが創業して間もなく恐慌に見舞われ、取締役の重鎮デント商会が倒産した。1874年の数々の投資プロジェクトの失敗によって、剰余金が前年の100万香港ドルから1875年の末には一挙に10万香港ドルに減らし、HSBCは無配に転落した。

 

この危機を乗り切るために、HSBCはイギリス系最有力商会から取締役を迎えることが急務となり、W. Keswickさんを取締役に招いた。HSBCの経営は、Keswickさんの取締役への参加と、1876年からThomas Jacksonさんが頭取に就任したことによって建て直され、それ以降、資本金と積立金は順調に増えていった。

 

ジャーディン・マセソン商会にとってもHSBCにとっても、清朝政府への借款事業は重要な経営の柱であり、この点での微妙なライバル関係はその後も続いたが、ともに業績回復の目玉になった。ジャーディン・マセソン商会とHSBCが真に協調するようになったのは、ロシアやフランスが借款事業に進出してきた1895年頃である。

 

この経過をみると、KeswickさんがHSBCの取締役に就いた意味は、単なる資金面ばかりではなさそうだ。これまでの銀行の破綻を見ると、中途半端な株主が自分勝手な投資話で銀行を食い物にした例が、実に多い。それを抑える大株主として、頭取とワンセットでHSBCをドラスティックに改革するという「金融界の黒幕」の戦略があったと考えている。

 

写真は、1986年に完成した香港HSBCである。地上180m、46階、地下4階。山の形の鉄骨は構造上の問題とは関係もない。この時も、風水で占ったら、こうなったそうだ。

参考文献 1)石井摩耶子:近代中国とイギリス資本 前出 2)立脇和夫:HSBCの挑戦  前出