その4 生糸検査所2006年08月14日 02時53分29秒


のむけはえぐすり 第22弾 原善三郎
 その4 生糸検査所
  
 40才を目前にした善三郎は、荷主との関係に苦労する。
 慶応6年(1866)の大火によって、弁天通3丁目の店舗が焼失する。それを機に、荷主達が泊まれるような大きな家に立て直す。そうして良質な生糸を運んでくる荷主の便宜を図ろうとする。そうなると、人間、ここまでというところがない。あちらの店はこうだった、こちらの店はこうだったと始まる。港崎遊郭(みなさき)に遊びに行く金まで払わされ、挙げ句の果てには、名義を借りて勝手に生糸を売りとばす者まで出てくる始末だ。

 たまらず、「売込商申し合わせ規則」を作り、一切そういう接待は止めましょう、足元を見られないように手数料も1%に決めましょうということになった。それでも少しむごいかなと思うのは、明治16年(1883)の「横浜生糸売込問屋申合規則」のこと。生糸相場の下落による損失は荷主が負担すること、火災などによる損失弁償責任は負わないことなどが定められた。これで荷主達は、グウの音も出ない。

 明治6年(1873)に、生糸の粗製防止・品質維持を目的に「生糸製造取締規則」「生糸改会社規則」などが制定され、善三郎を含む横浜の35人の売込商によって、生糸改会社が設立される。善三郎は5人の社長のうちの一人で、例の三越得右衛門さんや茂木惣兵衛さんらと一緒に、お上から選ばれている。

 実は、これが上手い仕掛けになっている。まず、生糸は地方の生糸改会社で品質検査を受け、大蔵省発行の印紙を貼ることが義務づけられる。その上、輸出生糸に関しては、横浜生糸改会社で再検査することになる。これで、横浜の生糸売込商が、生糸の流通ルートの頂点に立てるというわけだ。やがてその民間の生糸改会社は生糸検査所と改称するが、あまりの不評に明治12年には解散してしまう。17年後の明治29年(1896)、国立の生糸検査所として再び登場する。

創立当時、国立の生糸検査所は本町1丁目にあった。写真は、建物が関東大震災で壊れた後、大正15年(1926)に現在地に立て替えられた旧生糸検査所である。今は、横浜第2合同庁舎になっている。桜木町駅から弁天橋を渡って、海岸側に帝産倉庫と書かれた煉瓦造りの建物が並ぶ。その北仲通5丁目の角にある古ぼけた煉瓦の建物である。
 
参考文献
1)山田長夫:横浜経済文化事典、有隣堂、1958
2)横浜開港資料館:横浜商人とその時代、有隣堂、1984

コメント

_ のむけはえぐすりの薬効その2 ― 2006年08月14日 11時53分32秒

またまた、失礼いたしました。テイサン倉庫のサンは、産まれるのサンではなく、天の虫の蚕でした。一番大事な所をです。こういう文章は、チェックしても、チェックしても、間違いが見つかります。
できても直ぐ出さないで、2日以上は手元におくようにしているのですが・・・。
いっそう、気を引き締めて、精進!精進!
お詫びに、帝蚕倉庫も特集しなきゃ。

_ のむけはえぐすりの薬効 その3 ― 2006年08月14日 22時04分57秒

またまた間違い探し。チョット、謹慎ものダネ。
慶応6年はありません。慶応2年の間違い。
慶応は3年間だけ。誰かさんと一緒。ハハハッ・・・。自嘲。

_ tim ― 2006年08月14日 23時32分50秒

「慶応は3年間だけ」---おちがついてるところが立派!

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