第126弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 山城の秦氏 広隆寺の弥勒菩薩2009年06月14日 05時44分31秒

のむけはえぐすり;広隆寺の弥勒菩薩

第126弾  のむけはえぐすり
古代の帰化人 山城の秦氏 広隆寺の弥勒菩薩

 ソメイヨシノが盛りを過ぎ、しだれ桜が満開の頃、京都の太秦にある広隆寺を訪ねた。嵐山から京福電車に乗り、京都の市内に向かって5つ目の駅、太秦広隆寺に着く。

 駅の踏切を渡ると、広隆寺の南大門がある。阿吽の仁王像が見守る山門を抜けると、白い玉砂利が眩しい中庭に出る。新緑の楓や松の枝先に講堂が透けて見える。その奥に上宮王院太子殿があり、本尊に聖徳太子像が安置されている。

 広隆寺に聖徳太子が祀られているのは、この寺が聖徳太子の建立した寺だからだ。日本書紀には、つぎのように書かれている。
 推古天皇11年(603年)、聖徳太子が臣下の前で「自分のもとに尊い仏像がある。誰かこの仏像を拝むものはいないか」と尋ねると、秦河勝が進み出て、「私が拝みます」といい、仏像を賜った。この仏像を安置するために秦河勝が建てたのが、蜂岡寺とも呼ばれる広隆寺である。

秦河勝と聖徳太子の関係が歴史に現れるのは、用明天皇2年(587年)に起きた蘇我馬子と物部守屋の戦いの時である。この戦いは日本に初めて渡来した仏教に対して、廃仏を唱える物部氏と、崇仏派の蘇我氏との確執が発端のようにいわれている。路線の違いと言えば聞こえはいいが、とどのつまりは権力争いである。徹頭徹尾、ウマが合わなかったようで、敏達天皇の葬儀の際に、お互いが緊張に震えながら弔辞を読む姿を、「矢が当たった雀のようだ」とか、「鈴でもつけておけ」とか、交互にあざ笑っている。

16歳の聖徳太子は、この戦いに蘇我氏側の皇族として出陣している。数に勝る蘇我軍ではあったが、古くから軍事を司る物部氏が相手では苦戦を強いられた。その最中、聖徳太子が木に四天王像を彫って戦勝を祈願すると、戦局は好転したという。四天王寺や法隆寺は、その時の請願によって建立されたといわれている。

この戦いで、秦河勝は秦氏の武力と財力を背景に、聖徳太子の軍政人として活躍した。聖徳太子の生涯を伝える「聖徳太子絵伝」には、河内の衣摺の戦いで、櫓から射落とされた物部守屋に真っ先に駆け寄って、首を取ろうとしている秦河勝の姿が描かれている。

 話は現代に戻る。

広隆寺の裏庭にある新霊宝堂へと向かう。
 高い天井の新霊宝堂は、静寂さが漂う博物館のようだ。薄暗い館内の左に、厳しい顔をした十二神将像が並んでいる。筋骨隆々として均整のとれた体に、兜をかぶり、思い思いの武器を手にしている。名前も伐折羅(ばさら)、宮毘羅(くびら)などと、エキゾチックだ。

 正面の壇上には、写真の弥勒菩薩半跏像が据えられている。広隆寺で求めた絵はがきから複写したものだ。もともとは金色に輝く仏像であったらしく、今も金箔の痕跡があるという。右足だけ胡坐をかいた足の上に左手がさりげなく置かれ、右手の中指をそっと頬にあて、目をつむり、口元には笑みをたたえている。日本の仏像には珍しい赤松の木で造られたこの弥勒菩薩が、新羅王から聖徳太子に贈られた仏像だといわれている。その証拠に、韓国の国立中央博物館に収められている新羅で出土した「金銅弥勒菩薩半跏思惟像」とよく似ていると、平野邦雄さんはいうのだ。

館内にはもうひとつ、弥勒菩薩半跏思惟像がある。こちらは「泣き弥勒」と呼ばれ、確かに右手の人差指と中指が涙をぬぐっているように見えるし、キッと結んだ下唇が「べそ」かいているようにも見える。広隆寺のパンフレットには百済からの貢献仏だと書かれているが、平野さんは新羅で作られたという。そのことで、平野さんは新羅仏教の聖徳太子と百済仏教の蘇我馬子との対立軸を考えているのだ。

だが、聖徳太子は新羅への遠征を企てている。古代史の底流にあるはずの親新羅と親百済の人脈は、そう簡単には割り切れないようだ。太子の死後、聖徳太子の一族である上宮王家が、長男である山背大兄皇子(やましろおおえのおうじ)の皇位継承に絡んで、蘇我馬子の子、蝦夷によって滅ぼされた。山背の名はこの皇子が山城国の氏族に養育されたことを示しているのだが、その氏族が秦氏だったかどうかは分からない。

国宝第1号となったほほ笑む弥勒菩薩像の右手前に、秦河勝夫妻の像がある。夫人の方は、頭の上で髪を束ね、その髪を肩まで垂らしている。秦河勝の方は衣冠束帯を着用しているが、冠位を示す元の色が分かれば、たいした位ではなかったはずだ。秦氏が朝廷財政の実力者であったとはいえ、官人として高位高官に登りつめる者は少なかったからだ。

秦氏が京都の葛野に入植してから100年ほどたち、古代の帰化人が隠然たる勢力を誇ったとしても、朝廷の有力者の管財人や私兵になるのがせいぜいで、朝廷の中枢に登用されるにはさらに長い年月が必要だった。

参考文献
1) 平野邦雄:帰化人と古代国家、吉川弘文館、2007
2) 聖徳太子 争点を解く21の結論、歴史読本、親人物往来社、41巻、20号
3) 平林章仁:蘇我氏の全貌、青春出版社、2009


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コメント

_ 上宮王家 ― 2009年07月19日 23時09分38秒

上宮王家が目指した先は、深草の秦氏だったようです。山背大兄皇子は生駒まで逃れたところで、この後、大きな戦いになり、民が苦しむのは本意ではないと、斑鳩に戻られ、一族が首をくくり、屋敷に火を放って、果てたと言われています。当時の皇族は、血を流して死ぬことを忌み嫌ったそうです。
蘇我蝦夷は、この入鹿の暴挙を烈火のごとく怒ったと言われています。財界ナンバーワンの秦氏が支援する皇位継承者を、武力で葬り去ることが、どんな結果を招くか。それを予感したのかも知れません。
大化の改新の2年前のことです。

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