第146弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 大隴神社2010年02月23日 01時35分30秒




第146弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 大隴神社

 

近江鉄道愛知川駅から徒歩10分、地図の緑丸印の所に大隴(たいろう)神社がある。

 

大隴神社の隴(ろう)という字は、「隴を得て蜀を望む」という中国の格言にある地名だ。魏の曹操が隴地方を手に入れ、さらに蜀に攻めようとした時に、部下に答えた言葉で、一つの望みを遂げると次の欲望が起き、欲望には限度がないという例えに使われる。

 

だが、大隴神社の隴はそれとは関係なく、もとは大領神社と呼ばれていたからのようだ。大領とは郡の長官のことだ。

 

古代の琵琶湖東岸には、北から坂田酒人君、息長君、犬上君、愛知秦公(えちはたのきみ)、佐々貴山君、羽田公、蒲生稲寸(いなぎ)、安直(やすのあたい)という豪族がいた。その多くは古くからの在地の豪族だが、唯一、愛知秦氏だけは新羅からの帰化人で、愛知郡の大領を代々世襲していた。

 

というのは、もともと愛知川は周囲より低い位置にあるために農業用水の確保が難しく、人が住めない所だったからだ。そこに、山城の秦氏の一部が移住してきて、得意の土木灌漑技術で開墾し、北の宇曽川流域にも田畑を広げ、鈴鹿山脈からの扇状地である八木、蚊野の辺りから大隴神社にかけての広い地域に住むようになった。縁故関係も多く、奈良時代や平安時代の文書によると、愛知秦公、愛知秦など、秦氏の支流は十二流を数えるほどになった。7~8世紀間の大領と少領を合わせると、28人中24人が愛知秦氏であったことが確認されている。その愛知秦氏ゆかりの神社が、大隴神社である。

 

写真のように、鳥居のそばには、延喜式内神社とか大社とか何もない、ただ大隴神社と書かれた石碑がたっている。参道を行くと、左手に略歴が書かれた銅板がある。

 

錆びてかなり読みにくいが、祭神の筆頭は、国生みを行った女神、伊邪那美(いざなみ)大神になっている。相殿には大和の三輪山の大物主神、帰化人のシンボル建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、葛野の松尾神社と同じ大山咋神(おおやまくいのかみ)、国生みの男神の伊邪那岐命の名前がある。大山咋神の名前があるので、京都の賀茂氏系で、秦氏ゆかりの神社であることがうかがえる。伊邪那岐命が筆頭になっているのは、伊邪那岐命を祀る近くの式内大社の多賀神社にあやかっているのかも知れない。

 

創立年代は不詳というくらい、古いということなのだろう。天智天皇の王子の大伴邪須羅麿(やすらまろ)と、淳和(じゅんな)天皇の王子が崇敬したと記されている。天智天皇の皇子には大友皇子以外に芝基(しき)皇子、河島皇子がいるが、「王子の大伴邪須羅麿」というのが分からない。近い名前といえば、天智天皇の先代、孝徳天皇の右大臣、大伴長徳(ながとく)の息子に大伴安麻呂がいる。

 

大伴氏は古くから大王家を軍事面から支えた氏族であったが、近江朝廷では疎外されていた。天智天皇が亡くなり、弟の大海人皇子と長男の大友皇子との間に起きた皇位継承を巡る壬申の乱では、大伴長徳の弟二人、大伴馬来田(まくた)と大伴吹負(ふけい)は大和方面の大海人軍の将軍となった。初戦で大伴吹負が大友軍に勝利したことが、壬申の乱の勝敗を決した。大海人軍勝利の知らせを近江の不破関にいた大海人皇子に知らせる伝令になったのが、大伴吹負にとっては兄の息子、大伴安麻呂である。知らせを聞いて、大海人皇子は直ちに不破からの出撃を命じた。大海人軍は琵琶湖の東岸を南下し、大津宮に侵攻した。

 

山城の秦氏は大海人側についた。大和方面の初戦で、秦造熊(はたのみやつこくま)がフンドシ一つで馬に乗り、単身、大友軍の陣営に突っ込んで行き、「高市皇子が大勢の兵士を従えて、不破からやって来たゾ」と叫んだ。これを聞いて浮き足立った大友軍は、アッという間に大伴吹負が率いる大海人軍に制圧されてしまったという。他にも、乱後の論功行賞の中に、秦造綱手(つなで)が、忌付の姓と大錦下の位を賜ったと記されている。

 

一方、米原の鳥籠山で戦死した大友軍の本営守備隊長の秦友足(ともたり)は、遠山美都男さんによると、愛知秦氏ではないかとされている。

 

大海人軍の進軍の途中にある琵琶湖湖東の豪族たちは、存亡の危機に立たされた。神崎郡の羽田公は、当初、不破関の大海人軍に対峙する大友皇子の大津本営軍に属していた。指揮官であった山部王が、大海人軍への内通を疑われ、副将の蘇我臣果安(はたやす)と巨瀬臣人(ひと)によって殺害される事件が起きた。蘇我臣果安は大津に帰陣して自決した。このことがあって、羽田公矢国と大人(うし)の親子は大友軍を離脱し、大海人軍に北越将軍として迎えられた。乱後の論功行賞にも名を連ねている。

 

ここに至って、旗幟を鮮明にしてこなかった坂田酒人君や息長氏は大海人軍に参戦した。多分、この時に愛知秦氏も大海人軍についたと思われる。そうでなければ、湖西の三尾公のように羽田公の軍勢によって滅ぼされ、その後の大領に名前を連ねることができなかったはずだ。

 

大隴神社の略歴に大伴邪須羅麿の名があることで、次のようなストーリーを考えた。当初、大友軍として戦っていた愛知秦氏が、大海人軍の有力者の血縁である大伴邪須羅麿を頼って、大海人軍の軍門に降ったと・・・。乱後の処分では、近江朝の首謀者以外への処罰は驚くほど軽微であったという。

 

参考文献

1)遠山美都男:壬申の乱、中央新書、1996

2)榊原康彦:異論 壬申の乱、彩流社、2009

3)水谷千秋:謎の渡来人 秦氏、文春新書、2009

 




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