ケルンの水(Eau de Cologne) ;パパジョー店内の教会の説明2009年04月19日 03時12分46秒

ケルンの水(Eau de Cologne) ;パパジョー店内の教会の説明

パパジョー店内にある飾り

これは”St.Maria ad Gradus”という教会の説明

大聖堂のすぐ横にあったものらしい

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ケルンの水(Eau de Cologne) ;パパジョーのピクルスとソーセージ2009年04月19日 03時19分33秒

ケルンの水(Eau de Cologne) ;パパジョーのピクルスとソーセージ

ピクルスとソーセージ・・・一見生のソーセージ風に見えたが固い

しかし味はしっかりしていてピルスにあう

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ケルンの水(Eau de Cologne) ;パパジョーの白ソーセージ2009年04月19日 03時24分20秒

ケルンの水(Eau de Cologne) ;パパジョーの白ソーセージ

パパジョーの白ソーセージの茹でたもの

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ケルンの水(Eau de Cologne) ;パパジョーの生ハム2009年04月19日 03時27分52秒

ケルンの水(Eau de Cologne) ;パパジョーの生ハム

とにかくお腹が空いていたので頼んだ生ハム

最高に美味かった

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ケルンの水(Eau de Cologne) ;パパジョー とりあえずピルス2009年04月19日 03時30分53秒

ケルンの水(Eau de Cologne) ;パパジョー とりあえずピルス

とりあえずピルス

しかし本当によくピルスを飲んだ

何せソフトドリンクとビールが同じ値段なので(水はへたをするとビールより高い)ビールを飲まない理由が無い

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ケルンの水(Eau de Cologne) ;パパジョーの店内2009年04月19日 03時35分28秒

ケルンの水(Eau de Cologne) ;パパジョーの店内

パパジョーの店内

第一次大戦前のサロンの雰囲気・・・ピルスを飲みながら食べて語ってという感じ

店内はいたるところに何かしらが飾ってあり天井にも色々なものが貼ってある

機械仕掛けのロボットみたいなバンドが演奏をしている

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ケルンの水(Eau de Cologne) ;パパジョーのビアサロン2009年04月19日 03時41分56秒

ケルンの水(Eau de Cologne) ;パパジョーのビアサロン

Papa Joe's Biersalon (パパジョーのビアサロン)

実はJAZZのライブをやっているお店のつもりでいった

ジャズの曲で"An Evening at Papa Joe's"というのがありハンク・ジョーンズやコールマン・ホーキンスが演ってるのですがそのパパジョーのお店を探していった・・・しかも日曜は4時からライブがあるという

場所はWebでライン川のほとりにあったのを確認して大聖堂をみたあと歩き始めたらすぐ目の前にあるじゃないですか

入ったらちょっと雰囲気が違う・・・ライブステージがない

・・・でもお腹も空いていたので・・・いつものピルスとソーセージに(^_^)

後で調べて分かったのはこのビアサロンは大聖堂のすぐ裏側にあるがライブをやってる僕が行きたかったお店はもう少しライン川のほうにいったところにあった・・・まさか2軒もあるとは知らなかった

2年後のケルンに行くときには絶対にライブを聴きに行きます(^_^)

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第122弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 山城の秦氏 葛野大堰2009年04月19日 18時55分02秒

のむけはえぐすり  古代の帰化人 山城の秦氏 葛野大堰

第122弾  のむけはえぐすり

古代の帰化人 山城の秦氏 葛野大堰

 京都、嵐山の渡月橋の欄干には渡月橋、大堰(おおい)川と彫られている。そのすぐそばに、桂川と書かれた小さな石の標識がある。渡月橋を境に、大堰川は桂川と名前を変える。

 渡月橋から上流を見ると、写真のように左右からせまる山間が、保津峡の急流を隠している。川を横断する堰(せき)が流れを止め、舟だまりを作っている。静かな淵には屋形船やらボートが浮ぶ。

 下流の桂川の広い河原には、ところどころに鷺のような白い鳥が遊ぶ。堤防には、淡いそら色の空に、満開の垂れ桜が揺れる。葛野(かどの)と呼ばれたこの辺りで、桂川は京都の町中から流れてきた鴨川、琵琶湖からの宇治川、奈良からの木津川と合流し、やがて大きな淀川となって大阪湾へ注ぐ。

 堰がなかった古代には、大堰川はここで扇のように広がり、氾濫を繰り返しながら、肥沃な土を堆積していた。五世紀末、帰化人の秦氏がここに堰を作り、荒れ川を治め、葛野を開墾した。この堰は葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれ、嵐山のあの堰の少し上流にある川底の段差がその名残だという人もいるが、はっきりした場所は分からない。
 ただ、写真の左手に、堰と渡月橋を迂回する、蕩々とした流れの水路がある。堰を築いて本来の流れとは別の水路で水量を調節する。古代も今も治水の原理は変わらないようだ。

 日本書紀の言い伝えでは、秦氏は秦の始皇帝の子孫だと名乗ってはいるが、実際は新羅や伽耶の豪族だったといわれている。秦氏の始祖の弓月君(ゆづきのきみ)は応神天皇の頃に、百二十県の民を連れて日本にやって来たという。百二十県の民というのは多少誇張があるにしても、かなりの大人数であったことは確かだろう。

 秦氏が初めて朝廷から賜った土地は、大和の五条から葛城古道に入った葛城山のふもと、朝妻の地であった。朝妻には大きな川がない。だから、瀬戸内海へと続く河川の交通路もなければ、多くの人々を養う肥沃な扇状地もない。私が葛城古道を散策した時の朝妻は、ただ吉野から吹き下ろす風の中で、遠くに大和三山が見渡せる土地だった。

 秦氏が葛野に移り住んだのは、五世紀末、雄略天皇の頃である。朝鮮半島では、475年に高句麗によって百済の都の漢城が落城し、蓋鹵(ケロ)王が殺害され、事実上、百済が一旦滅びている。その後、百済は雄略天皇にも助けられ、都を熊津に移し、再興された。百済の庇護を失った伽耶諸国は、存亡の危機に曝され、新羅に降るものもあったが、日本に逃れるものもいただろう。一挙に、秦氏のもとに集まる帰化人が増えた。

 大勢の帰化人を抱え、手狭になった秦氏は、広い土地を求めて葛野に移住した。だが、この帰化人たちは、着の身着のままやって来た難民ではなかった。故国の乱世に見切りをつけ、新天地を求めて移住してきた集団であった。朝鮮半島で中国からの文化の影響をいち早く受け、先進的な技術を身につけていた。当時の日本人よりもはるかに土木技術に長け、機を織り、土器を作り、鉄を鋳造し、灌漑を行う人々であった。秦氏の持つ中国伝来の版築土木工法が、葛野大堰の治水を可能にした。少量の土を棒でつつきながら固めていくやり方は、古墳づくりにも、鉱山開発にも力を発揮した。水を支配した秦氏は、葛野の地に職能集団を集め、豊かな集落を築いていった。

 豊かになった秦氏の秦忌付都理(はたのいみつき・とり)は、文武天皇の701年に氏神となる松尾大社を創建した。都理は、実は鴨県主久治良(かものあがたぬし・くじら)の第2子であり、娘の知満留女を斎女として奉仕させた。宮司は最近まで秦氏が世襲していたという。
 
 阪急嵐山線で、終点の嵐山駅の一つ手前の松尾駅を降りると、早速、松尾大社の大きな赤い一の鳥居が目に入る。山吹が埋め尽くす参道を過ぎると、二の鳥居越しに山門が見えて来る。

 鳥居を過ぎた左手の奧に、長さが10m、幅が2mほどの川渡しの舟、駕輿丁舟(かよちょうぶね)が、伏せたお皿を重ねたように二隻、収納されている。この船で、四月の松尾祭には、葛野を練り歩く神輿(みこし)を運ぶのだという。

 この渡し船のような平底の小さな船ならば、流れを伝ってどこにでも行けると思った。こんな小さな舟でも、人一人が担いで運ぶことと比べれば、輸送量は格段に増える。森鴎外の小説の「高瀬舟」も、京都の木屋町を流れる小川のような高瀬川を、このような十石舟で大阪まで行く話だった。
 葛野の地に立つと、桂川、鴨川、宇治川、木津川が合流するこの辺りは、瀬戸内海と平安京を結ぶ物資の往来を見渡せる重要な場所でもあることが分かる。  
 
参考文献
1)平野邦雄:帰化人と古代国家、吉川弘文館、2007
2)川口謙二:日本の神様読み解き事典、柏書房、2007


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