第123弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 山城の秦氏 松尾大社2009年04月29日 04時37分52秒

古代の帰化人 山城の秦氏 松尾大社

第123弾  のむけはえぐすり
古代の帰化人 山城の秦氏 松尾大社

 京都の嵐山に向かう阪急嵐山線の松尾駅のそばに、松尾大社がある。大宝元年(701)に秦忌付都理(いみき・とり)が創建し、娘の智満留目(ちまるめ)を斎女として奉仕させたという。以後、松尾大社は古代の帰化人、秦氏の氏神となった。

写真のように、松尾大社の二の鳥居の下段には、注連縄(しめなわ)が張られ、枯れた榊が12本吊られている。閏年には13本となるが、毎月の五穀豊穣を占う古代からの風習で、脇勧請(わきかんじょう)といい、鳥居の原型になったものだといわれている。

 昭和21年まで、神社には社格という格付けが、厳格に定められていた。
 
 社格は、延暦17年(798)に官幣の神社と国幣の神社に分けたことから始まる。律令制度が確立して、とりわけ霊験あらたかな神社は神祇官が直接奉幣する官幣の神社とし、遠くて神祇官が行けない神社は国司が代わって奉幣する国幣の神社とした。それぞれに、大社と小社がある。平安時代の延喜5年(905)から、「延喜式」といわれる全国の神社の一覧表の作成が始められ、その神名帳に記載されている神社を延喜式内社という。勿論、松尾大社は式内社で、官幣で、それも大社。

 よくある一の宮、二の宮というのは、国司が赴任した時に最初に奉幣する神社、2番目に奉幣する神社という意味だが、官幣の松尾大社にはその言い方は当たらない。二十二社というのは平安時代に朝廷から特別に崇敬を集めた神社で、当然、松尾大社もそのひとつ。要するに、松尾大社はなかなかの格式と由緒のある京都最古の神社なのだ。

 神社の格付けとは別に、祭られている神様にも位階(神階)があった。
 町の片隅にある小さなお稲荷さんの祠の前に、赤や白の幟が立てられ、そこに「正一位稲荷大明神」と書かれているのがそれだ。松尾大社がはじめに従五位をいただいたのは長岡京遷都の直後で、お稲荷さんよりも43年も早い。正一位に昇進したのも、76年も先だ。
 
 お稲荷さんと比べては申し訳ないが、なにしろ近年の宗教統計調査によれば、全国の分社の数が最も多いのが伏見稲荷大社で、32000社もあるからだ。二番目の宇佐八幡宮は25000、伊勢神宮、天満宮、宗像神社と続き、松尾大社は1100で17番目だが、神階で言えば松尾大社が一番ということになる。

 京都には正一位の神社がもうふたつ、上賀茂神社と下鴨神社がある。他に全国にも正一位の神社はなく、大阪の住吉神社や長野の諏訪大社でも従一位がせいぜいである。

 上賀茂神社と下鴨神社は、先に大和の葛城から京都盆地に移住してきた鴨氏の氏神である。ところが、伏見稲荷の神祇官の家系図や秦氏本系帳によれば、松尾大社を創建した秦忌付都理も、伏見稲荷を創建した秦伊呂具も、鴨氏から秦氏に入った婿だというのだ。「鴨県主家伝」には、都理も伊呂具も賀茂社の禰宜の黒彦の弟だったと書かれている。だから、上下の賀茂神社を一緒にして、秦氏三所明神などという呼び方もある。

 その話がどこまで史実かは分からないが、秦氏がその財力を背景に、時の有力者と婚姻関係を結ぶのは良くある話のようだ。例えば、平安京の造営大夫の藤原小黒麻呂の妻は秦氏、長岡京の造宮使長官の藤原種継の母も秦氏である。当時の実力者の藤原氏と結び、その財力を背景に長岡京や平安京の造営のスポンサーにもなったという。

 神社はもともと、そこに住む集団や共同体の信仰の中心として建てられたものだ。それなのに、自分の神社の格式が高いとか低いとか、比べられてはたまらない。そういうことが起きたのは、中央集権国家が形成される過程で、集落やクニが統合され、統合した側の神様が統合された側の神様の上位に扱われるようになったからだ。最終的には大和朝廷の神様が最上位になるのだから、本来その神社に祭られていた神様を知ることで、その氏族の出自やら由来、朝廷との関係を推測することができるというものだ。

 松尾神社の主祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)と中津島姫命(なかつしまひめのみこと)である。
 大山咋神は「偉大な山の境界の棒」という意味で、古事記によれば、比叡山にいた神様で、須佐之男命(すさのおのみこと)の孫だという。秦氏の女が川から流れてきた鳴鏑(なりかぶら)の矢を持ち帰ると妊娠し、その鳴鏑が大山咋神だった。これと同じ話は鴨氏にもあって、大山咋神は丹塗の矢に化身して鴨氏の玉寄姫と結婚し、生まれた子が賀茂別雷神(かものわけいかずちのかみ)だという。

 皇室の天照大神と須佐之男命、それにもう一柱、月読神(つきよみのかみ)は、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)から生まれた兄弟である。秦氏が須佐之男命の孫を松尾大社に祭っているのは、天照大神は越えないけど近いという秦氏の精一杯の自慢と遠慮だろう。だが、松尾大社の隣に葛野坐(かどのにいます)月読神社もつくり、月読神もちゃっかり取り込んでいる。

 中津島姫命は玄界灘の宗像三神のひとり、市杵島姫神(いちきしまひめかみ)のことだ。こちらも須佐之男命が持っていた剣から誕生した三柱の女神のうちの一人で、大和朝廷と朝鮮半島との交流が盛んだった頃の海の神、航海の安全の神だった。松尾大社が中津島姫命を祭っているのは、秦氏が朝鮮半島とゆかりの深い帰化人の氏族だったからだ。

 参考文献
1)稲田智宏:松尾大社、特集・古代王権と神社の謎、歴史読本46(10)、2001
2)川口謙二:日本の神様読み解き事典、柏書房、2007
3)特集・謎の聖域 神々の社、歴史読本33(3)、1988