のむけはえぐすり 第102弾 原善三郎の話 その80 香港マカオ取材旅行 Noonday Gun ― 2008年09月04日 21時17分33秒
のむけはえぐすり 第102弾
原善三郎の話 その80 香港マカオ取材旅行 Noonday Gun
香港がJardineの町だった証拠が、香港一の商業地区、銅鑼湾(トンローワン)にもある。
地下鉄に乗って中環から3つ目の駅、銅鑼湾に着く。地上の人混みにもまれながら通りを眺めると、海から道の広さが大中小の順に並ぶ。
一番手前の“小”の狭い道の両側には露天が立ち並び、店先には所狭しとカラフルな服が吊られている。渣甸坊(Jardine’s Crescent)と呼ばれる女性用の日用雑貨、衣料品を売る露天街だ。
“中”の歩道には人が溢れ、バスの前後をひっきりなしに横切っている。渣甸街(Jardine’s Bazzar)と呼ばれる中小の店が並ぶ食堂街だ。私はどの旅でも地元の人が行く店に入り、店内を見渡して“Same one, Please”とやるのだが、忙しい時に訳の分からないやつが来たとドヤされそうで、さすがに気後れがして入れない。
“大”が怡和街(Yee Wo St.)で、香港最大の商業街だ。怡和はJardineの中国名で、近くにはHennessy通りもあれば、1860年頃にTaipanだったPercivalさんの通りもあり、Mathesonさんの通りもある。「のむけはぐすり」のアイドルの名前がつけられた通りのオンパレードにワクワクしながら、さらにアイドルを探して歩く。
怡和街を渡り、崇光(ソゴウ)百貨店横のEast Point通り(東角道)を海岸まで行くと、そこがEast Pointだ。East Pointは、1842年にマカオで行われた土地のオークションで、ジャーディン・マセソン商会が落札したLot. 1の歴史的な場所である。今は世界貿易中心(センター)が建っている。
そこからGloucester通りを渡るのに、海水を引き込むパイプのある地下道を通る。地上に出ると、鉄柵に囲まれた敷地の中に、金色が光る青い小口径の大砲がある。毎日正午に号砲が放たれるNoonday Gunである。正午にはまだ1時間もあり、オジさんが一生懸命ワックスを塗って磨いている。
その昔、ジャーディン・マセソン商会は沿岸警備隊を組織し、自前の砲兵隊を所持していた。砲兵隊はいつの頃からか、ジャーディン・マセソン商会のtaipanが着任したり離任したりする時に礼砲をならすのが習慣になった。
はじめの頃は、その習慣はtaipanばかりではなく、海軍提督の入出港にも行われていたようだ。1836年のある日、礼砲のやりとりを聞いたW.
Jardineは、「何のつもりでアメリカの戦艦に礼砲を撃つンだ。Kennedy提督が来るたびに、ここにいる商船はいちいち礼砲で応えるのか? そんなことをしていたら、1ヶ月もしない内に火薬がなくなってしまう。火薬はもっと有効な目的のためにとって置け!!」と、スコットランド人特有のブチ切れ方で怒ったという。
ある時、何も知らない海軍のお偉方が通りかかると、ジャーディン・マセソン商会のいつもの礼砲が静かな海に鳴り響いた。このお偉方が驚いたの何の。この時の罰で、ジャーディン・マセソン商会は毎日正午に号砲をならすことを義務づけられ、今に続いている。
Noonday Gunは香港の人々に愛された。第二次世界大戦後に香港が解放された時にも、直ちに英国海軍から大砲が貸与され、正午に号砲一発というNoonday Gunが復活した。1997年に香港が中国に返還された7月1日の正午にも、前日と同じように号砲が鳴り響き、変わらぬ時を刻んだ。
1946年には、Noonday Gunにもう一つ新たな行事が生まれた。
その年の大晦日に、ジャーディン・マセソン商会のパーティーが銅鑼湾で開かれた。バグパイプとドラムの音が鳴り響き、スコットランドの伝統的なリールが踊られた。真夜中が近づくと、Noonday Gunまでトーチが灯され、大砲につるされた船の鐘が打ち鳴らされた。8点鐘が終わると、行く年来る年を祝う号砲が鳴り響いた。集まった人達はしばし新年の挨拶でざわめいた。その後、場所は中環のJardine Houseに移され、マンダリンホテルからのケータリングを前に、騒ぎは明け方まで続けられた。これが恒例となった。
道幅の“中”、Jardine’s Bazaarでの気後れがたたって、お腹がすいた。正午を待たずにNoonday Gunを去る。最後にNoonday Gunの掲示を柵越しに見ると、海賊に対抗するために重装備で茶を運搬する快速帆船がここに停泊地としていた、と書かれている。
「海賊!? 茶!?」
「ウ~ン!? まあイイか、ここはJardineの街だし、食事もしなきゃいけないし・・・」
参考文献 1)M. Keswick : The thistle and the jade. 前出
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のむけはえぐすり 第103弾
原善三郎の話 その81 香港マカオ取材旅行 香港医学博物館
14世紀頃、ヨーロッパではネズミについたノミによって媒介されるペストが流行し、人口の3割が失われた。「ハメルーンの笛吹き男」という童話は、その頃の話だろう。ネズミに困り果てたハメルーンの人々は、旅の男にネズミ退治を依頼する。男は笛を吹いて町中のネズミを誘い出し、川で溺れさせた。町の人々が報酬を渋ると、男は町中の子供たちを笛で誘い出してどこかに連れて行ってしまったという話だ。
何とも気味の悪いこの話は、ペストの猛威が町中の子供を失うことに匹敵するほど凄まじいものであることを暗示している。原因がよく分からなくても、ネズミの死骸が目立つと次は人間に来るという程度の認識は、当時の人々にもあったのだろう。
そのようなペストの流行が中世の話だと思っていたら、1894年の香港にもあった。その時に北里柴三郎さんが率いる日本人医師グループがやって来て、ペストの病原菌を発見し、多くの人の命を救った。その時の教訓から設立された香港微生物研究所が、現在も香港醫学博物館として残されている。
場所は中環駅から銅鑼湾駅とは反対方向の隣の駅、上環で降りて山の方へ歩く。この辺りは今の香港ができた頃に中国人が住み着いた場所で、かつての商業の中心街だった。
地下鉄から地上に出ると、そこはもう中国そのもの、赤い柱と看板の海産物問屋が並ぶ。店先には貝柱やら牡蠣やらの乾物が並べられ、粒が大きい上物には日本宗谷産と書かれている。店内を覗くと、箱に並べられたツバメの巣が売られている。中には、ツバメの巣の不純物を店先で取り除いている所もあり、その雑さが何とも中国的で圧倒される。
右の永楽街に入ると、今度は漢方薬の問屋が並ぶ。木や草の根っ子が店先に積み上げられ、朝鮮人参の匂いが街に溢れている。その先の坂を上ると、かつての貧民窟が今は骨董屋となって並ぶ。モーロション街(Upper Lascar Row)だ。何でも売る店先で、中国の勲章やら毛沢東語録と一緒に、緑の腕輪やネックレスが並んでいる。翡翠といいたいのだが、テレビ番組「なんでも鑑定団」での中国の古物の惨敗ぶりを見ていると、どうにも素直になれない。吹っかけられた値段の交渉をするエネルギーもない。
店先の小物にまで半身な姿で眺めながら、急坂を上る。荷李活道(Hollywood St.)には、いわゆる骨董品や工芸品が陳列されている。これこそ「なんでも鑑定団」の現場とばかりに、眺めるだけでただ通り過ぎる。
その角にあるのが文武廟(マンモウミウ)。香港最古の文武の神様を祭る寺院だ。中に入ると、信者が長いお線香を捧げ持って何やら熱心に祈っている。隣では白人のお嬢さんがお線香に火をつけただけで、一心不乱にただ燃やしている。一回火を付けたら何日も持ちそうな巨大な渦巻き型のお線香が天井から吊られ、煙を出している。その煙が廟内を薄暗くして、荘厳というよりは、むしろ煙い。
さて、文武廟横の坂を上ると、写真のような煉瓦で作られた香港醫学博物館がある。クレゾールの消毒液が匂いそうな白一色の部屋には、ペストが流行した当時の香港がパネルで紹介されている。1894年の香港の人口は246000人で、その96%を占める中国人は先ほど通ってきた辺りを中心に住んでいた。1864年から30年間に人口は倍増し、住宅不足で、豚と一緒に生活するような劣悪な衛生環境にあった。その中で、1894年にペストが流行したと言う。
ペスト菌は、その年に日本の国立伝染病研究所から香港に派遣された北里柴三郎さんによって発見された。それはそうなのだが、と註釈がある。柴三郎さんは4人の医師の手助けを受けたが、同じ頃、中国人のYersinさんが一人でペスト菌を発見したと書かれている。第1発見者として名前を残せなかったのは残念だが、そんな話は柴三郎さんにもある。ジフテリアと破傷風の免疫療法の有効性を世に出したのは柴三郎さんと共同研究者のベーリングさんだが、なぜか第1回ノーベル医学賞を受賞したのはベーリングさんだけだった。
ペスト菌の発見には、1884年にデンマークの学者Christian Gramさんが発明したGram染色が貢献しただろう。Gram染色によって紫色に染まる細菌をグラム陽性菌、染まらずにピンクに見えるものをグラム陰性菌と呼び、今でも分類に使われている。色素に染まるか染まらないかの細胞壁の性質が、そのまま病態の違いや抗生物質の効き具合に反映している。そういう意味では、ペスト菌はやっかいなグラム陰性菌の方に属しているが、幸い今は有効な抗生物質があり、日本では1926年以後発生していない。
静寂な館内に小学生らしい子供たちの一団が、誰かに連れられてやって来た。笛の音は聞こえない。騒がしくなった館内から逃げ出すように外に出ると、暑い日差しの中、一瞬にして「香港の汗かき男」になった。
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