ソウル;63ビルからの夜景 ― 2008年09月20日 04時15分01秒
ソウル;63ビルからの夜景 ― 2008年09月20日 04時20分10秒
のむけはえぐすり 第104弾 原善三郎の話 その82 ジャーディン・マセソン商会 100億円の勲章 ― 2008年09月20日 04時30分04秒
のむけはえぐすり 第104弾
原善三郎の話 その82 ジャーディン・マセソン商会 100億円の勲章
外交史料館の別館は吉田茂記念館をかね、玄関を入ると写真のような吉田茂さんの銅像がある。吉田茂さんは終戦直後に外務大臣となり、その後首相としてGHQのマッカーサーと渡り合い、サンフランシスコ講和条約を調印し、戦後日本の復興に大きな功績があった政治家である。自由党党首として吉田茂さんが育てた官僚議員グループの「吉田学校」からは、池田勇人さんや佐藤栄作さんら、後の首相となる人材が何人も輩出した。
銅像の隣には、杖をつき羽織袴で帽子にメガネをかけた吉田茂さんの写真をバックに、略年譜が書かれている。生まれを見ると、吉田茂さんは1878年(明治11年)、自由党志士の竹内綱さんの5男として生まれている。3才で横浜の貿易商、吉田健三さんの養子になった。
横浜の吉田? 吉田新田の吉田さん? そんな話は聞いたことがない。調べてみると、面白いことが分かった。
まず、吉田茂さんが養子に出された経緯が面白い。
実父の竹内綱さんは土佐の出身で、戊辰戦争への従軍後はしばらく官僚をしていた。退官後は、同郷の後藤象二郎さんが払い下げを受けた高島炭坑の経営に関わり、実業界で活躍した。その後、板垣退助さんの自由党に参加し、衆議院議員として自由党土佐派を率いた。
竹内綱さんは西南戦争に荷担した疑いで、1年間投獄されたことがある。その時に武内綱さんの子供を身ごもっていた芸者が、竹内さんの親友の吉田健三さんに助けられ子供を産んだ。竹内家の五男ということになっているが、子供がいなかった吉田健三さんの養子になったその子が、吉田茂さんだ。
竹内家の係累もなかなかだ。長男の竹内明太郎さんは、父親同様、鉱山経営に携わった。最新技術を欧米から導入するなかで日本の機械工業を興し、唐津鉄工所や小松製作所の創業者となっている。
養父となった吉田健三さんの方はもっと面白い。吉田健三さんは福井藩の渡辺謙七さんの長男として1849年に生まれ、絶家していた吉田家を継いだ。1864年には脱藩して、大阪で医学を学び、次いで長崎で英語を学んだ。1866年にイギリス軍艦でイギリスへ密航し、二年間留学した。長崎、イギリスと来たら、グラバーさん抜きには語れない。
1868年、19才で帰国すると、ジャーディン・マセソン商会の横浜支店長に就任し、軍艦、武器、生糸の貿易で業績を上げた。3年後にジャーディン・マセソン商会を退社した時の退職金は1万円。吉田健三さんはそれを元手に、さまざまな事業に手を出し、横浜でも有数の実業家になった。吉田健三さんは東京日々新聞の経営にも携わり、その縁で自由党の板垣退助さん、後藤象二郎さん、竹内綱さんらと知り合い、自由党のスポンサーになった。
そういう吉田健三さんの跡継ぎとして、吉田茂さんは横浜太田町に住むようになった。ところが、1888年、吉田健三さんが40才の若さで亡くなってしまう。11才の吉田茂さんは当時のお金で50万円の遺産を相続することになった。今で言えば100億円。
その後、吉田茂さんは大磯で養母の士子(いとこ)さんに厳しく育てられた。この士子さんの家系も大変なもので、お祖父さんは昌平坂学問所の儒官というから、今で言えば幕末の東大総長のような人だった。まして、士子さんとは、「生(な)なさぬ仲」である。吉田茂さんの家庭の寂しさというのも想像できる。
小学校は横浜の太田小学校を卒業している。中学校は、何があったのか、短期間に次々転校している。最終的に学習院の高等科を卒業した。当時は学習院大学から無試験で東京帝国大学に入学できる官僚養成コースがあった。東大を卒業してからは、外交官になった。昭和11年には駐英大使を務め、昭和14年に外務省を退官している。その後は日独防共協定に反対したり、旧知の英国政府の要人と接触して戦争回避に尽力したりで、軍部からは親英米派と目されていた。
終戦後は外務大臣を務め、昭和21年には内閣総理大臣兼外務大臣となり、第1次吉田内閣を組織した。この頃には、養父から受け継いだ財産はすっかり食いつぶしていたらしい。その後、万事一流好みで金のかかる吉田家の家系をまかなっていたのは、娘和子さんの嫁ぎ先だった九州の炭坑王、麻生太賀吉だったと言われている。
吉田茂さんが戦後の名宰相であったことは間違いない。亡くなる3年前の昭和39年には、86才で大勲位菊花大授賞を授与された。吉田茂さんは青山墓地にある養父の墓前にその勲章を供え、「財産はすっかり使い果たしましたが、その代わり陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたという。
勲章となった100億円。元手は、ジャーディン・マセソン商会の22才の青年への退職金の1万円。今なら4億か、5億か。こんな会社、ただモンじゃアない。
参考文献 1)小林大作、他:吉田茂、別冊宝島、1459号、2007
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