クラウンプラザの日本料理屋 寅福2012年09月19日 20時42分11秒

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広州白雲空港で寧波行の飛行機待ちです。

最近はどこもフリーのNETが繋がるので本当に便利です。

日本ももっとしっかりしないと・・・遅れてます。

尖閣がらみのデモというか暴動もやっと沈静化し、明日あたりから工場も再開するようです。
よかった、よかった・・・ですが、つくづく中国はいやになります

クラウンプラザの日本料理屋 寅福です



ここは本当に美味しいです


抗州湾大橋を通って寧波から上海へ2012年09月20日 20時47分45秒

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昨日は夕方まで佛山の会社でMTGをし、そのあと広州白雲空港に。

ここから寧波に行く予定だったんですが飛行機が一時間以上遅れて結局寧波のホテルに着いたのは夜中の12時半・・・疲れました。

佛山のホテルも寧波のホテルも高級でいつもは日本人が沢山見かけられるのに全然いません。

寧波で仕事を終わらせてから36kmの世界一の長さを誇る抗州湾大橋を通って上海に。

ここはいつも霧がかかっており写真的には全然面白くないけど2時間でこれるからありがたい。




途中のサービスエリアで中国の方が「面白いのがあったから」と買ってきたもの


一見さつまいもみたいですがクリみたいに固く隅は尖ってます。
なんでも中国の川にいる生き物を茹でているみたいです。

堅い殻みたいなのを割ると中はクリのような、芋のような白いちょっと甘い実です。




無事上海のいつものホテルに着いたらフロントの女性に「勇気のある日本人ですね」
と言われました。ここも松江という地区で日本企業が沢山入ってるので日本人の出張者が
多いんですが、ご多分にもれずほとんどいません。


第185弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 穴太 髙穴穂神社2012年09月21日 23時38分15秒











第185弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 京阪線沿線 穴太 髙穴穂神社

 

 始発の坂本の次が松の馬場、その次が穴太である。駅は、山から湖岸までの短い傾斜の途中にある。300mも山に向かえば四ツ谷川に沿った穴太野添古墳群があり、湖岸に向かえば穴太廃寺跡がある。

 

現在の穴太廃寺跡は西大津バイパスの高架の下にある。1979年に西大津バイパスが完成するまでの発掘調査で、この辺り一帯に縄文時代から7世紀にかけての4層以上に重なる集落の遺跡のあることが分かった。

 

 一番上の第1遺構面には、7世紀中頃の柵や溝の間に掘立柱建物群と切妻大壁造住居跡がある。上の写真は切妻大壁造住居の発掘の様子で、四角形に掘られた溝とその中に等間隔に柱が並んでいる。地面から上の部分を土で塗り込めて壁を造り、それで屋根を支える構造になっている。内部は土間であったらしい。

 

上から2番目の第2遺構面は、6世紀末から7世紀初頭にかけての住居跡で、掘立柱住居群と切妻大壁造住居の他に、礎石を持つ14m5mほどの建物もみつかっている。第3遺構面は、6世紀後半の掘立柱建物群の遺構である。第4遺構面は縄文時代の遺跡である。そのうち、第1から第3までの遺構面には切妻大壁造住居や礎石建物などの特殊な建物があり、近くにオンドルのある建物も発見されていることから、帰化人の集落の遺跡と考えられている。ざっくり言えば、穴太の一帯には560年頃から630年頃にかけて、帰化人の集落があったといえそうだ。

 

 穴太廃寺跡には2層の寺院跡が重なっている。下層の寺院は白鳳時代の創建とされ、中門を入ると右手に五重塔、左手に西金堂、そしてその向こう正面に中金堂がある「一塔二金堂」の川原寺式伽藍配置で、近くの南滋賀町廃寺と同じ配置である。だが、建てられて間もなく、全面的に建て替えられ、上層の寺院跡は大津宮の建物と方位が一致していることから、大津宮と同じ頃に建てられたと考えられている。瓦に刻まれた「庚寅年」の年代から、こちらもざっくりと、下層の穴太廃寺の創建は630年頃といえそうだ。

 

 現代の穴太駅から100mほどの所に、髙穴穂(たかあなほ)神社の杜が見える。

 

杜を目当てに歩いて行くと、髙穴穂神社の鳥居の横に案内がある。髙穴穂宮跡(伝承地)と記され、景行(12)は3年、成務(13)は61年、仲哀(14)は半年と、三帝の都の跡とある。拝殿と本殿はあっけないほど小振りで、とても天皇の宮の旧蹟とは思えない。下の写真のような杜の奥にある東郷平八郎によって揮毫された「髙穴穂宮址」の碑で、どうにか面目を保っている。

 

髙穴穂宮は古代から成務の宮地という認識だが、髙穴穂神社の周辺に宮殿らしい遺跡や遺物はみつかってはいない。成務の業績として、日本書紀に各地の豪族を国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)に任命したことが記されている。古代に地方行政組織を確立した天皇とされ、全国支配を成し遂げたように語られている。

 

それを連想させる伝承が、成務の周りにはある。成務の兄は小碓命すなわち倭健命で、倭健命は父・景行の命令で九州、出雲、東国に遠征して成功したとする伝承がある。この伝承が成務の全国支配と重なる。

 

また、倭健命の命を奪ったのが近江の伊吹山の神であり、倭健命が息長氏の系譜に登場し、息長帯比売命(神功皇后)につながる。この伝承が成務の都が近江にあることと重なり、近江が重要な役割を果たしていることを示している。

 

結局、成務には子がなく、成務の後を継いだ仲哀は倭健命の子である。成務は在位60年、107才で亡くなったとされるが、日本書紀には実質5年の記録しかない。成務の地方支配の説話を、後の天智の大津宮における中央集権化の投影と見る説は多く、大津市史も日本歴史地名体系もこの立場をとる。成務は実態が謎に包まれた天皇である。

 

崇神(10)、垂仁(11)、景行(12)、成務(13)、仲哀(14)、応神(15)と続く系譜の中で、崇神の都は磯城、垂仁の都は纒向で、共に三輪山麓にあった。陵墓は崇神が山辺、垂仁が平城宮の西にあり、三輪王朝と呼ぶ。それに対して、応神の都は橿原、仁徳の都は難波だが、陵墓は共に河内にあり、河内王朝と呼ぶ。三輪王朝から河内王朝への交替があったと考え、両王朝の交替はスムーズではなく、成務と仲哀の時代はその混乱期であったとする説がある(大津市史、79p)。成務の都は髙穴穂宮で、陵墓は平城宮の北で三輪王朝に近いが、仲哀は都が福岡の香椎宮だが陵墓は河内で河内王朝に近い。成務の髙穴穂宮はその混乱のなかで生まれた都と考えられている。

 

その髙穴穂の地に、百済からの帰化人、穴太氏がいた。「歴代天皇記」をみると、成務の在位は4世紀中頃となっている。一方、穴太氏の先祖が帰化したのは応神の頃というが、実際は百済の近肖古王の時代のこととされ、400年前後に比定されている。ということは、後漢の孝献帝の子、美波夜王の子孫が穴太氏を名乗ったから穴太の地名になったのではなく、穴太の地は古くは穴穂(あなほ)といい、百済からの帰化人が穴穂に居住したから穴太氏となったようだ。

 

「あのう」の地名は、畿内の交通の要所に多いという(日本歴史地名体系、214p)。今回、穴太駅から見渡した一帯は、山が湖に迫る四ツ谷川の扇状地であった。大和と山城からはいずれの間道を通っても、この狭隘な地を通らなければならない。農業に適した土地とはいえないが、北陸道の要所であることが分かった。

 

参考文献

1)滋賀県教育委員会(2012年):切妻大壁造住居跡,http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2001/index.html  20129月確認

2)日本歴史地名体系25巻、滋賀県の地名:平凡社、東京、1991

3)大津市役所:新修 大津市史Ⅰ 古代、1978

4)肥後和男編:歴代天皇記、秋田書房、東京、1985

 


「動乱の中国」から無事帰還(^_^)2012年09月22日 03時33分09秒

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「動乱の中国」から無事帰還しました(^_^) 

気分は「アポロ13」のトム・ハンクスみたいなものです。

それにしても日本人はほとんどいません・・・当たり前だな

写真は帰国便のJAL機内(2割位の乗車率)をTG-1でスケッチ処理したもの。
これからは中国便は減便ですって。来月の上海デンタルショーのころはどうなっているのでしょうか?



米国では「尖閣は日本の領土。安保の対象」という記事をマスコミが大々的に取り上げてます。
橋下さんみたいなのが首相になってしっかり言うべきことと対応をしないといけないと思う。

それにしても・・・疲れた(^_^;;;

TG-1のロガー機能で動乱の中国ツアー(^_^) ルートをグーグルアースで再現しました2012年09月22日 18時47分34秒

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TG-1のGPSロガー機能は日毎にファイルができてるんですが今回の全行程を一覧できないか?ということでファイルを結合させてグーグルアースで表示してみました



すごいです、飛行機の中もログを取ってます

なんでも水中でもとれるとか

ミラーレス買わなくても結構楽しめますね

とはいってもケルンではフォトキナが開催されて盛り上がってるし
・・・煩悩だらけだから困っちゃう (^_^) 


フェースブックの写真と記事がみんな消えてしまった2012年09月23日 15時35分02秒

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フェースブックで1記事というか投稿だけ直そうと思って「アルバムの削除」ボタンを押したら
これまでの投稿がみんな消えてしまった(^_^;;;

まったく”ついてへん”

折角中国から帰ってきたというのに土日とも雨でテニスはできへんし・・・

こんな日はとんQでトンカツでも・・・


やまと豚の水彩画風です

料理を撮るにはTG-1の魚眼機能が最高2012年09月24日 21時55分45秒

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週末に行ったスシローでTG-1を色々いじって「フィッシュアイ」(魚眼)機能が料理を
量感たっぷりに美味しそうに写しだすことに気づいた。

今週末は久しぶりにフライペンに行って自慢の料理の写真を撮ってこよう(^_^) 

















iphone5が届いたってさ(^_^;;;2012年09月25日 21時17分46秒


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先日iphone5を申し込んだ話をしたんですが、僕の半日前にWEBで申し込んだ会社の
若いもんが「昨日届いた」と言って持ってきた(^_^;;;


チキショー 癪だなぁ。。。

軽くって良さそう

写真は東京のデンタルショーに行く途中の高速から見たスカイツリー

本当に雲より高いや

でもこのタイミングで展望台にいた人は腹立つだろうね


我が家にiphone5が来た日2012年09月26日 22時35分53秒

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今日は東京に出張してついでにスキーウェアを見てこよう(^_^) としたら
ソフトバンクから電話が・・・これは他の用事の訳がない・・・
ということで予定変更でお店に直行


とりあえず設定だけしてもらって電車に飛び乗りました

電車の中で色々いじっていたらgmailがつながったので会社と個人のアドレスから返信

これでいっちょまえにicloudの仲間入り(^_^) 




ところが用事が終わって帰りの電車ではなぜか繋がらず・・・まあいいです
気長にやりましょう


第186弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 滋賀里 百穴古墳群2012年09月27日 20時54分53秒











第186弾  のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 滋賀里 百穴古墳群

京阪線穴太駅の次は、滋賀里駅。駅から山に向かって、「大津京の道」を約1km歩くと、百穴(ひゃっけつ)古墳群がある。

 坂本から大津の間は山が湖に迫り、平地が少ない。その丘陵部の急斜面や扇状地の要の位置に、多くの後期古墳の群集墳がある。

68基の日吉大社古墳群の周囲には140基。152基の穴太野添古墳群の周囲には218基。63基の百穴古墳群の周囲には214基。そして、南滋賀と錦郡の周囲に70基と、全て数えたら1000基は優に超える。

 地図で古墳群の分布を見ると、穴太の穴太野添古墳群のグループと滋賀里の百穴古墳群のグループとの間に、ほんの200~300mだが古墳群が途切れるところがある。そこが、古代の大友郷と錦郡鄕の境目だと大橋氏はみている(大橋、147p)。

 百穴古墳群のそばを際川が流れ、森の中に枯れ葉に覆われた斜面の所々に大きな石が露出している。石は半ば埋もれながら、ここに2個、あそこに3個と顔を出している。中には、石室内部が見える古墳もある。

 写真は露出した玄室で、手前が石室の通路だったのだろう。玄室の左右と奥の壁が、上に行くほど内側にせり出している。「持ち送り」と呼ばれ、かなり急な傾きである。手前の石は石室の天井を覆っていた石のようだ。この大きさだと天井は2~3個の石に覆われていたのではなかろうか。他の地方にはなく、6世紀中頃に盛んになり6世紀末には消滅した横穴式石室である。一般的にこのような横穴式古墳の3分の1には、ミニチュア炊飯具が副葬されているという。ミニチュア炊飯具はこの百穴古墳群の古墳からも発見され、帰化人の古墳と考えられている。

 志賀漢人という言葉がある。古代の滋賀郡の南部は、大友村主、穴太村主、錦部村主などの帰化人で埋め尽くされ、これらの帰化人たちを志賀漢人と呼ぶことを山尾幸久氏が提唱した。志賀漢人には先にあげた主な3氏の他に、槻本村主や三津首などもいる。多くは後漢の献帝の子孫を名乗っている。

志賀漢人とは何者で、いつ頃、どこから来たのか、滋賀里あたりにいたのはどの志賀漢人かということに興味がある。

 その手がかりになるのが、坂上系図にある姓氏録の逸文である。応神天皇の頃、阿智王は段、李、郭、朱、多、皀(きゅう)、高の7姓の漢人を率いて帰化し、大和国檜隈郡に住んだ。しばらくして阿智王は、同じ出身地の人々が高句麗や百済や新羅に離れて住んでいるので、呼び寄せたいと申し出た。仁徳天皇の頃に、たくさんの人々がやって来て、初めは今来郡(今の武市郡)に住んでいたが、手狭になったので諸国に移住したというのだ。

 もとより、この話がどれほどの史実に基づいているのか、分からない。だが何者かということでは、志賀漢人が姓氏録で後漢献帝の末裔と主張するように、中国系の渡来人と見る説もあるが、この姓氏録の逸文からは、先に帰化した人々の招きによってやって来た高句麗や百済や新羅からの人々ということになる。

いつ頃かというと、仁徳天皇の頃という。それを、志賀漢人を唱えた山尾氏は、当時の国際情勢に対する分析から、570年とみている。新羅の隆盛に危機感を抱いた高句麗から日本海ルートで使節が派遣され、その対応のために志賀津という交通の要所にこれらの人々を配置し、実務を担当させたという。一方、大橋氏は607年に小野妹子の遣隋使派遣の一行の中に、志賀漢人慧隠の名がみえることから、それ以前から住み始めており、大津北郊の後期群集墳の築造年代からすると、5世紀後半から6世紀後半あたりまでを考えている。

どこからということでは、もとは朝鮮半島からだが、先に来て檜隈郡に住んでいた倭漢(やまとあや)氏のもとに統合され、河内や大和に住んでいた人々の中から、配置されてきたということのようだ。

何のためにということでは、大和政権の指示で、北陸、東山道諸国からの物資を湖上ルートで輸送する際に、志賀津で管理・運営するためということだが、その運営にあたったのは蘇我氏である。

最後に、この滋賀里に住んでいたのは、どの志賀漢人かということだが、百穴古墳群から1Kmほど南にある志賀町廃寺が天平時代の錦部寺にあてられることから、錦部村主の氏寺であったと考えられる。だから、この志賀里あたりに住んでいた志賀漢人は、錦部村主であったといえそうだ。だが、錦部鄕に錦部がいたことは文献的には確認されていない。

実は大友氏も穴太氏も近江全域に進出し、各地で勢力を築いた記録はあるが、志賀鄕のどこに居住していたかが分かるような記録がない。先に述べた古墳群が途切れる場所が大友鄕と錦部鄕の境だとして、大友氏の本拠は氏(うじ)の名が一致する大友郷と考えられる。大友鄕の南には穴太氏の本拠があったので、大友氏は北、すなわち坂本周辺に本拠があったと考えられる。

ところが、「続日本紀」によれば、延暦6年(787)に大友村主、大友民曰佐、錦曰佐、穴太村主がそろって志賀忌付を賜ったと記されている。「続日本後紀」には、837年に今度は志賀史、錦部村主、大友村主が春良宿禰を賜ったとある。それぞれの氏族がそろって願い出たわけだが、この同じ姓を名乗ることになった氏族はその昔、出身が一緒だった可能性がある。

200年たっても、あるいは300年たっても、自らの出自に対する絆と思いは続いていたということなのだろう。
 
 参考文献
1)大橋信弥:古代豪族と渡来人、吉川弘文館、東京、2004