第176弾 のむけはえぐすり 継体天皇の磐余玉穂宮 (稚桜神社)2011年05月08日 16時15分06秒




第176弾  のむけはえぐすり

継体天皇の磐余玉穂宮 (稚桜神社)

 

 継体は526年にようやく大和入りを果たし、磐余玉穂宮を建てた。

 

その伝承地を訪ねる前に、桜井市立埋蔵文化財センターに行ってみた。そこには、ここ数年、貴重な発見が相次いだ纒向遺跡などの出土品が展示されている。

 

展示の中に、「古墳時代前期~後期(4~6世紀頃)の諸宮」という歴代大王の宮の伝承地の一覧がある。文中の表は、その一覧表から現代の桜井市内に伝承地がある宮を、私が抜粋したものだ。桜井市の北部から磯城郡にかけての磯城(しき)、北部の纒向(まきむく)、東部の泊瀬(はつせ)、南西部の磐余(いわれ)といった地名がついている。磐余の継体の玉穂宮は、神功皇后、履中、清寧、用明と一緒で、桜井市市谷または池之内が伝承地となっている。

 

センターを出てから国道169号線を南下し、桜井市池之内の稚桜(わかざくら)神社を目指した。古代には、飛鳥から奈良盆地を北上する幹線道路がほぼ2Km間隔で一直線に並んでいた。西から下ツ道、中ツ道、上ツ道と呼ばれ、さらに東の山麓を走る道を山辺道(やまのべのみち)といった。最も整備された7世紀頃の道幅は、43mもあったという。ほぼ一直線に走る現代の国道169号線は、上ツ道の名残だ。

 

山辺道が始まる金屋には、古代に海石榴市(つばいち)という最古の市があった。海石榴市は伊勢へと続く初瀬街道、上ツ道、山辺道が集まる衢(ちまた・四方に通じる分かれ道)にあって、人々が集まり、栄えた。上ツ道は衢を過ぎると、山田道と名を変え、緩やかに西にカーブし、7kmほどで飛鳥に至る。

 

山田道の西、香具山との間が磐余の地で、多武峰から流れ出る大和川の支流が作り出した扇状地である。山田道の東には日本三大文殊の一つ、安倍文殊院があり、一帯は古代の安倍氏の本拠地であった。古事記の記載では、継体の妃に安倍波延比売(はえひめ)がいたことが思い出される。

 

 山田道の途中を香具山の方に右折する。地図には神社があるのだが、それらしい杜が見あたらない。車を停めて、畑仕事の親子に聞くと、親の方は私が来た方を指さして何か言おうとするが、子供の方は「そこだよ」と気軽に指を指す。見ると、小山の上に祠がある。

 

 「そこ」が写真の式内稚桜神社である。由緒書きには、日本書紀の履中311月の条にある稚桜の由来が記されている。履中(17)が神社の東にあった市磯池(いちしのいけ)に船を浮かべて遊んでいる時に、膳臣余磯(かしわでのおみあれし)が酒を奉ると、どこからともなく飛んできた桜の花びらが杯に入った。冬の桜の珍しさに捜してくるようにいうと、物部長真胆連(ながまいのむらじ)が室山から花を手に入れて戻って来た。履中は喜び、宮の名を磐余稚桜宮とし、物部長真胆連に稚桜部造、膳臣余磯に稚桜部臣と名付けた。

 

 祭神は出雲色男命(しこおのみこと)、去来穂別命(いさほわけのみこと)、気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)になっている。出雲色男命は物部氏の先祖、饒速日命(にぎはやひのみこと)の曾孫で、物部長真胆連はさらにその4世の孫にあたる。去来穂別命は履中のことで、この地で即位した。気長足姫命は仲哀(14)の皇后だが、日本書紀の神功皇后摂政紀に、子の誉田別皇子(ほんだわけのみこ・後の応神)を皇太子に立て、この地に若桜宮を作ったとある。

 

稚桜神社の祭神から、神功皇后と履中の宮がこの近辺にあったことが分かったが、清寧、継体、用明の宮があった証は何もなかった。清寧は生まれつきの白髪で、年齢不詳、妃もなく、子もなく、在位も実質、まる4年に過ぎない。在位中も、雄略後の皇位継承問題で吉備稚姫とその子星川皇子による吉備勢力を巻きこんだ反乱にあい、その後も次の王位継承者捜しに明け暮れた。一説には、清寧の甕栗宮は池之内の少し先にある御厨子神社だという話もある。

 

問題の継体の磐余玉穂宮だが、稚桜神社から300mほど香具山の方に向かった所に、小字名が「おやしき」という小さな丘がある。そこだという人もいる。最近の発掘調査では、「おやしき」には15世紀に築造された中世の城郭の跡があり、戦国時代に廃城になったことが判明した。丘の周りの田畑は、履中が作った磐余池に推定されている。今見ると随分田舎だが、藤原宮の頃は、東八坊と四条の京域の中だった。

 

継体が桜井の中でも磐余の地に宮を設ける理由があったのだろう。継体が王位を継承するのに一番の弱点は、自らの血統が先代と遠く離れていることであった。そのために、仁賢の娘で、武烈の姉である手白香皇女を皇后に迎え、入り婿の形をとって正当性を演出した。都を定めるにあたっても考慮されたのは、武烈と手白香皇女の血筋だ。二人の父である仁賢は履中の孫で、母は清寧の妹である。清寧は在位期間が短いが、雄略につながる大事なキーマンだ。履中と清寧が共に都とした磐余は、両方の王統を継いだという正当性を補完するための絶好の場所だったにちがいない。

 

桜井市にはもう一つ、安倍文殊院の近くに若桜神社がある。場所は桜井市市谷で、初瀬街道と山辺道の衢に近く、古代の海石榴市があった辺りだ。こちらの若桜神社の祭神は、伊波我加利命(稚桜部朝臣の祖か?)、神倭磐余比古命(神武天皇)とされている。

 

式内社の実態としては先ほどの畑仕事の大人が指さした市谷の若桜神社の方に譲るとしても、磐余稚桜宮の伝承地としては子供が指さした池之内の稚桜神社の方に分があると考えてよさそうだ。

 

参考文献

1)谷川健一編:日本の神々4 神社と聖地、白水社、2009

2)桜井埋蔵文化財センター:磐余の遺跡探訪

3)宇治谷孟:全現代語訳 日本書紀、上、講談社文庫、2009

 



盗難防止 ハンドルロックバー2011年05月13日 22時00分26秒

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米国にいた方は馴染み深いと思うのですが・・・

盗難防止 ハンドルロックバーです

実は車の調子が悪くてトヨタに持って行って代車に借りたのがハイエースのディーゼル

その時にトヨタの方が

「最近は商用車がよく盗まれるので駐車時はこれでハンドルロックしてください」

米国にいた頃に警報装置付きの車を3連休の真昼間に大きなショッピングモールの
駐車場で盗まれたことがありまして、その後メインの車には5万円もする「まず破られない」
という電子ロックをつけたんですが、もう一台の車にこのバーを買って付けていた記憶が
あります。

安いけどまず見た目で諦めさせるという「抑止力」の効果もあります

当時は米国やアジアでは車の盗難が当たり前でしたがいまや日本もそうなったんですね。。。


札幌ジンギスカン 綿羊2011年05月15日 20時28分42秒

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テニス仲間の送別会

つくばにある「札幌ジンギスカン 綿羊」というお店に・・・

そういえば北海道では羊を「めんよう」と呼ぶんですよ

外観は完全な民家です


お店の前で親父さんが七輪で炭を起こしてます

韓国の焼肉屋さんでも同じ光景を見ましたね



ジンギスカン

北海道の人にとってはほとんど主食みたいなものです

ここは何とジンギスカン食べ放題+飲み放題で@4,100円という嬉しい企画

この日も6時から始めて11時の閉店まで飲んで食べてました

最近はヘルシーと安いということで女性だけのお客さんも多いそうです
・・・代行の運転手さんが言ってました



最近はジンギスカンといってもラムなので柔らかく臭いもあまりしませんが
僕が北海道にいた頃はマトンで堅くて臭かった・・・おしっこがマトンの臭い
してた。

でも安かった・・・100g  10円

高校時代は2時間目の休み時間に早弁して、お昼からとんずらして
下宿してるやつの所に行ってジンギスカン+ビールで盛り上がってました。
このころは一人前1kg買ってもぺろっと食べてましたね

その後マージャンしていていると、夕方同じ下宿にいる高校の先生が
顔を出したり・・・今もいい加減だけど昔からいい加減でしたね(^_^)

信の魂がエベレストの頂上に登れるように・・・荒井由実「ひこうき雲」2011年05月20日 22時15分51秒


高校時代に早退して彼の下宿で一緒にジンギスカンを食べていた親友・・・


信行君が亡くなったことが昨日わかった

東北薬科大に進学して仙台にいる頃は横浜からよく遊びに行った
彼が昼間授業に行ってる間こちらはパチンコとジャズ喫茶三昧だった
同級生がみんな可愛い女の子で本当に羨ましかった(^_^)

大学時代にワンゲル部に入って卒業して薬剤師になってからも・・・
突然連絡がきて

信「来月から2ヶ月(位だったと思う)エベレストに行ってきます」
僕「仕事は?」
信「退職した」
僕「えっ????」

そんなのが3回はあったけど帰って来るとすぐ「○○病院にいます」という連絡がきて、僕は「手に職があるというのは、しかも国家資格は偉いもんだ」と感心していた。


昨年の秋にハガキが来て・・・

「食道ガンになった。紺屋の白袴だ」

とは言っても昔は札幌医大の薬局にもいたし周りは専門家ばかりだから亡くなるという
想定はあまりしてなくって

「来年おやじの13回忌で帰るからその時に札幌で会おう」

という約束をして楽しみにしていたのだが。。。



岳--ガク---2011年05月21日 21時36分38秒



漫画「岳」では今 三歩がエベレストに一人で行くことになって久美が動揺している・・・

ビックコミックオリジナルとビックコミックは僕の愛読書で毎号必ず見ている
・・・といっても立ち読みだが(^_^)


岳はこれまでの山岳漫画と一線を画している
それは三歩の優しさというか人間性といっていいのか・・・だと思う


遭難してビバークしたまま亡くなっている登山者に
「よく頑張ったね」
と声をかけて救助隊が待ってるところまで背負って行ったり。。。。


一番好きなシーンは朝テントから出てコーヒーを入れて飲むところ(^_^)
キャンプでもそうですがあのシチュエーションで飲むコーヒーは「うまい!」
ましてや山頂では。。。



山にも登ってみたいとは思うが信が40kg(だったと思う)とか入ったボッカというのかリュックを背負って街中をトレーニングしてるのを見て・・・

絶対僕には無理!

と思ったので無駄な努力はしない

信が何度も行ったように山は、特にエベレストはいいところなんだろうね



第177弾 のむけはえぐすり 継体天皇の妃の手白香皇女衾田陵(西殿塚古墳)2011年05月26日 21時15分01秒





第177弾  のむけはえぐすり

継体天皇の妃の手白香皇女衾田陵(西殿塚古墳)

 

山辺道を歩くと、萱生(かよう)の集落を過ぎた辺りから、西殿塚古墳が見えてくる。農園をすり抜け後円部に沿って小径を歩き、上の写真の手白香皇女衾田陵(たしらがのひめみこ・ふすまだりょう)の拝所に出る。

 

途中、前方後円部のくびれが下の写真のように深くなっている。航空写真をみると、前方部の先端がバチ状に開き、箸墓古墳に近い形をしている。

 

埴輪の原型は壺をのせる特殊器台にあった。古墳に置くためにスカート状に裾が開いた形であった特殊器台が、葬送儀礼のための用具として大型化し、埋め立てるために底部が筒状に変化し、円筒埴輪となった。中間の形として、口縁部が段になった特殊円筒埴輪がある。写真の右側の畑から特殊器台と特殊円筒埴輪が出土したことによって、この古墳が3世紀末から4世紀初めに作られた古い古墳であることが分かった。

 

となると、6世紀の継体の正妃、手白香皇女の陵墓というには古すぎることになるが、陵墓指定地の被葬者と古墳の年代が合わないことなど珍しいことではない。それよりも、卑弥呼の時代に近い初期の大和王権の王墓が、ここにあることの方が驚きなのだ。

 

山辺道に戻ると、池に囲まれた西山塚古墳がある。115mあった前方後円墳の段丘に、今は果樹が植えられている。この辺りに存在する6世紀の前方後円墳が唯一この古墳であることから、この古墳が真の手白香皇女の陵墓だといわれている。墳丘の形も、後期古墳にしては後方部よりも後円部が高く、子の欽明の見瀬丸山古墳と同じである。埴輪は高槻の新池窯の埴輪ではなく、胎土分析の結果、菅原東遺跡の埴輪窯で作られた埴輪であることが分かった(清水、228)。

 

継体の今城塚古墳は高槻にあるのに、正妃の手白香皇女の陵墓はこの柳本古墳群にある。手白香皇女の母は雄略の娘で、春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)だから、和珥氏の出身のようだ。和珥氏が奈良市の北郊に移って春日氏と名を変える以前は、この辺りにいたので、母方の本拠地に墓を営んだということなのだろう。

 

私が常々不思議に思っていたことがある。継体が樟葉宮で即位したのが、継体元年(507)、57才の時である。多くの文献には仁賢の娘の手白香皇女を皇后にしてから、大和入りを果たしたように書いてあるので、77才で皇后を迎え、その後に欽明が生まれたと思っていた。随分、元気のいいお年寄りだと思った。

 

日本書紀をみると、継体が樟葉宮で即位した元年の35日に、手白香皇女を皇后に立てたとある。やがて後の欽明(29)が生まれた。欽明は嫡妻の子であったが、まだ幼かったので、二人の兄が国政を執った後、天下を治めたと記されている。続く314日には8人の妃を召し入れた。元の妃である尾張連草香の娘、目子媛(めのこひめ)の子が後の安閑(27)と宣化(28)であり、さらに他の妃の子の名前が挙げられている。欽明は継体が数えの5758才頃の子だと考えられるので、それなら子を作るのに無理な話ではない。

 

継体の後を継いだ安閑は、即位後2年、70才で亡くなり、子はなかった。次の宣化は、即位後4年、73才で亡くなった。宣化には13女がいて、長女の石姫皇女は欽明の妃となり、男子は地方豪族の祖となった。欽明の成長を待ち、王位はスムーズにつながったように見える。

 

いや、そうではなかったのだという上田正昭らの説がある。疑惑の発端は、日本書紀の注釈にある。日本書紀は、参考にした文献の諸説を、ある文献にはこう、この文献にはこうと列記している。今時の下手なブログよりもよほど学問的なのだ。

 

継体の死については、「ある本では継体の崩御は継体28年だが、百済本記では25年となっているので、25年を採用したが、聞くところによると、日本の天皇および皇太子、皇子皆死んでしまった」と注釈されている。まるで、王室内部でとんでもないことが起きたかのような言い方なのだ。

 

さらに上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記事では、欽明の治世を逆算すると、欽明は継体の亡くなった年に即位したことになるという。また日本書紀の紀年では継体は25年に崩御し、安閑はその2年後に即位したことになる。ところが本文には、安閑は継体が亡くなる直前に即位したと記されており、2年のぶれがある。それらのことを総合すると、継体の死後即位したのは欽明であり、2年後に安閑が擁立され、二つの王朝が並立したと考えた方が辻褄があうという話だ。

 

二王朝の並立説は、手白香皇女の血脈である和珥や葛城の臣グループが擁立した欽明に対して、河内系氏族である大伴氏と結んだ尾張の勢力が安閑を擁立して、巻き返しを図ったために起きたと考えられている。その背景には、日本書紀の安閑2年(535)に、筑紫、豊、肥、吉備、毛野の13カ国に26屯倉(みやけ)を設置したという記事があるが、この時代に大和王権が各地の豪族の支配地に屯倉を設置し、富を収奪していたので、地方豪族の不満が高まっていたことがあるという。朝鮮半島への出兵計画を契機とした527年の筑紫国造の磐井の反乱も、534年の毛野国造の同族同士の紛争も、地方豪族の不満が根底にあったとする。そういう地方と王権の軋轢の中で、二王権が並立するという異常な時代があったと考えるわけだ。

 

ところで、82才の継体が亡くなった時の安閑の年令は、空位2年在位2年として、70才から4引いて66才。継体が16才の時の子ということになる。若い時も結構元気だったと安心した。

 

参考文献

1)上田正昭:大和朝廷 古代王権の成立、講談社学術文庫、1995

2)清水眞一:玉穂宮・手白香媛の墓:森浩一、門脇禎二編:継体王朝 古代史の謎に挑む、2152292000

3)松本洋明:巨大前方後円墳は初期大和政権の王墓か、歴史読本、日本古代史「謎」の最前線 発掘リポート1995294-2971995


ヨネックスレディス;我らが李知姫プロ 是非優勝を2011年05月29日 10時58分49秒


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週末はどうしようもない雨ですが本日は監督はゴルフでしょうか?

ところでヨネックスレディスですが2日目で李知姫プロが首位にたってますね

混戦ですが是非優勝していただきたいですね


彼女のプロフィールを見たんですが梨花女子大学の出身なんですね(あんまり関係ないんですがなんとなくあの大学ってお嬢さん学校というイメージだったもので)

(高又順プロの結婚式での李知姫プロ)

第177弾 のむけはえぐすり 継体天皇の妃の手白香皇女衾田陵(西殿塚古墳) 補足2011年05月30日 21時32分06秒



第177弾の本文中の「墳丘の形も、後期古墳にしては前方部よりも後円部が高く、子
の欽明の見瀬丸山古墳と同じである。」の中の“後方部”を“前方部”に訂正いたし
ます。
 
この文はいくつかの説明が必要です。
 
1)写真は宮内庁陵墓指定地、手白香皇女衾田陵の前にあった案内板です。
案内板に右の方に航空写真がありますが、この西殿塚古墳の前方後円部のくびれが深
いのに気がついて下さい。前方部が後円部よりも小さく、バチ状に広がっているよう
な前方後円墳は時代的には古く前期古墳に属します。ついでにいうと、前方部は後円
部よりも低いのです。卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳に近い形をしています。
 
2)これが中期、後期になると前方部の方が発達して、大きく高くなって“ずんぐり
むっくり”な形になります。
 
3)欽明天皇の陵墓は飛鳥にありますが、実は近くにある6世紀では最大の見瀬丸山
古墳が真の欽明陵だろいうといわれています。陵墓指定地にはなっていないこの前方
後円墳が後期古墳のくせに、前方部が後円部よりも低くなっています。この形が西山
塚古墳と同じだから、母と子の陵墓が同じプランで作られたと考えられ、西山塚古墳
の方が真の手白香皇女の墓だろうといっているわけです。